仙石氏初代で小諸城主になった秀久(1552〜1614)が、用いた具足(甲冑〔かっちゅう〕)として仙石家に伝えられたものです。仙石氏は秀久の子忠政のとき上田へ移され、江戸時代前期に三代にわたって上田に在城しました。
兜〔かぶと〕は安土桃山時代を中心に流行した「変り兜」(「松平信一着用具足」参照)の一つで、上の端〔はし〕を折り曲げて縄でたばねた藁〔わら〕の編み笠をかたどっています。また、左右には歯朶〔しだ〕の形の飾り(脇立〔わきだて〕)を立てています。
胴をはじめ、その下の腰まわりに付けられている「草摺〔くさずり〕」等、全体に黒漆塗りの「小札〔こざね〕」を紺〔こん〕色の糸(紐〔ひも〕)で威〔おど〕し(綴っ)ています。
そのため、これは「紺糸威〔こんいとおどし〕二枚胴具足」とも呼ばれます。鎧櫃〔よろいびつ〕(収納箱)には仙石氏の家紋「永楽通宝紋」が描かれています。
仙石秀久は美濃〔みの〕(岐阜県)の生まれで、織田信長の家臣となり豊臣秀吉の部下として活躍しました。いったんは秀吉より讃岐国〔さぬきのくに〕(香川県)を与えられて、高松城主にまでなります。しかし、間もなく失敗を犯し領地を取り上げられて浪人した後、天正18年(1590)に、あらためて佐久郡を与えられ、小諸城主となりました。小諸から移された墓が、市内諏訪部の芳泉寺〔ほうせんじ〕にあります。