明治三十六年(1903)四月に、殿城〔とのしろ〕村大字殿城字神林(下郷)の畑からこの灰釉四耳壷が発見されました。発見者は小菅房峯さん、畑の所有者は上原吉五郎さんでした。この灰釉四耳壷の中には、中国から渡来〔とらい〕した古銭〔こせん〕が六貫〔かん〕三四五匁〔もんめ〕(約23.8kg)も入っていました。この重さから推定すると約6800枚の古銭が納められていたと考えられます。発見した小菅さんは、たくさんの古銭にさぞびっくりしたことでしょう。
ただし出土した古銭は、現在までにそのほとんどが失われてしまい、祥符元寳〔しょうぶげんぽう〕、皇宋通寳〔こうそうつうほう〕、景徳〔けいとく〕元實など19枚だけが残されています。上田市内では、この下郷〔しもごう〕出土以外に、岩門・常田・塩尻・中之条・前山地区などから中国の渡来銭〔とらいせん〕が大量に発見されました。
灰釉四耳壼は高さが35.5cm、口径が11.0cm、胴部の最大の直径が23.0cm、重量が3.75kgあります。ほぼ完全な形をしており、淡緑色〔たんりょくしょく〕をした灰釉〔かいゆう〕(木灰と長石を混合したうわぐすり)が施〔ほどこ〕されています。肩に四個の耳(環状〔かんじょう〕のツマミ)が付けられた壺〔つぼ〕で、四耳壺と呼ばれています。瀬戸地方で焼かれた古瀬戸〔こせと〕に分類される陶器で、制作された時期は鎌倉時代中期と推定されています。当時は骨を納める蔵骨器〔ぞうこっき〕として多く用いられていました。たいへん優美な作品で、中世の貴重な陶器です。
この灰釉四耳壷は下郷の深区〔ふかまち〕神社に寄贈され、現在信濃国分寺資料館で展示されています