日輪寺の御正体は、鏡板と本地仏の千手観音坐像が共鋳で、周縁を巡らす覆輪〔ふくりん〕、上方の両脇に大きな円孔のある吊環〔つりわ〕を同鋳しています(この写真では見えません)。中央の千手観音は、頭頂の化仏〔けぶつ〕は失われていますが、天冠台〔てんかんだい〕周囲に、簡略化された菩薩面が刻まれています。また真手〔まて〕(いちばん中心になっている腕)は合掌し、宝鉢手〔ほうばつしゅ〕(鉢をもつ腕)は腹前で宝鉢を戴き蓮華座に結跏趺座(座禅を組むようなすわり方)しています。
左右の脇手〔わきて〕は簡略化されたつくりで、蝶の羽のように形どり、放射状に筋目を入れてそれに代えています。法量は、鏡板の径12.9cm、肉の厚さ0.25cm、覆輪の幅0.55cm、覆輪の厚さ0.35cm、本地仏像の高さ5.7cm(蓮華座をふくむ)、本地仏の厚み1.9cmで、銘記はまったく刻まれず、全体に簡素な御正体です。制作年代は、本地の千手観音の簡略化された造り方からみて、室町時代後期とみるのが妥当でしょう。
日輪寺への伝来は、寺伝によると、滋野氏の祖である貞元親王の守護仏と伝えられますが時代的には合致しません。また神仏習合の思想の中で、御正体を守護仏にすることは考えられません。おそらくこの御正体は、いずれかの神社の祭神の本地として祀られていたものと推察されます。明治初年の神仏分離令によりおこった、廃仏毀釈〔はいぶつきしゃく〕運動によるものか、または何らかの事情により本寺へ移されたものと想像されます。
県内には、御正体の優品として、平安時代の後期までさかのぼる「不動明王御正体」(県宝・戸隠村個人蔵)、建長元年(1249)の銘のある「金銅十一面観音、釈迦、聖観音」(重文・坂北村・岩殿寺)をはじめとし、鎌倉中期の大町市の仁科神明宮の御正体(重文)、白馬村の神明宮の御正体(県宝)などがあげられます。しかし明治初年の時の政府が出した神仏分離令によって派生した廃仏毀釈運動により、かなりの御正体が破壊されたり、また神社から寺院へ移されました。
この廃仏毀釈運動の被害を受けた残闕〔ざんけつ〕(一部が欠けて不完全なもの)として、波田町の盛泉寺の「銅造薬師如来御正体残闕」、大町市の若一王子〔にゃくいちおうじ〕神社の「銅造十一面観音御正体残闕」は注目される優品です。