この陣鐘〔じんがね〕は、戦国時代の末、佐久において勢力を張った依田信蕃〔のぶしげ〕(常陸介〔ひたちのすけ〕、後に右衛門佐〔うえもんのすけ〕)が、実際に戦陣で用いたものと伝えられていますが、その確証はありません。一般には戦陣で用いられる鐘を陣鐘といいますが、陣中において、兵法にもとづき、兵士たちの進退の合図に打ち鳴らされるもので、具鐘、半鐘ともいわれています。
陣鐘の形制(つくり)は、竜頭〔りゅうず〕・笠・鐘身・駒ノ爪からなっており、乳〔ち〕ノ間〔ま〕がなく、中帯、草ノ問は盛り上がった紐状〔ひもじょう〕の線で区切られています。全体の形は梵鐘の形をもとにしてはいますが、かなり変形しています。竜頭は古来の形式をはなれ装飾的な文様に変化し、笠部は高めの盛り上がりとなっています。また鐘身部は梵鐘特有の縦帯〔じゅうたい〕がなく、既述したように乳の間がなく、中帯、下帯を紐のような線で区切るのみです。
そして鐘身の上部(この写真では両側)に相対するように、采配〔さいはい〕と旗指し物の図柄を、半肉彫りに陽鋳しています。これは梵鐘にはみられない表現です。そして梵鐘の中帯に当る場所に、相対するように撞座を二か所もうけ、その間に葵唐草文〔あおいからくさもん〕を陽鋳しています。撞座は竜頭の長軸の延長に対し、平行の位置にもうけられていますが、これは中世以降の梵鐘の通例にならうものです。平安時代中期以前の古鐘は、竜頭の長軸と撞座を結んだ線が直交しています。
これは機能的に、鐘を撞いたときに梵鐘が揺れ動くという欠点をもっていました。中世以降、撞座の位置が変わったのは、この欠点を克服するための進歩であったと思われます。また撞座が梵鐘に比して鐘身の下部近くにあるのは、音声を強めるためと考えられています。
この陣鐘の法量は、総高30.0cm、竜頭高5.4cm、笠形高3.4cm、笠形径14.3cm、鐘身高21.0cm、口径18.9cmです。また鐘身上部に「明應二年癸丑年 勅許御鋳物師 江州高野住 土方出羽正作之」と銘が陰刻されています。このことから陣鐘は室町時代中期に鋳造されたこと、また鋳造した鋳物師がわかり、在銘の陣鐘として貴重といえましょう。
このほか上小地方には、陽泰寺(上田市上野)に文政元年(1818)銘、信定寺(和田村)に延徳三年(1491)銘の二鐘が陣鐘として伝存しています。