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法衣(袈裟)・法被・打敷など七領(東昌寺)

種別 :市指定 工芸品
指定日:昭和53・4・8
所在地:浦野

解説

浦野の東昌寺は、才応総芸和尚によって、曹洞宗として開かれた寺で、鐘楼のほかに、袈裟〔けさ〕や法被〔はっぴ〕・打敷〔うちしき〕など七領〔かさね〕も上田市の文化財に指定されています。才応総芸和尚は、昔福井市足羽〔あすわ〕にあった心月寺の大室総芳和尚について学び、石川県門前町の総持寺や心月寺(七世住職)につとめ、岐阜県や三重県にいくつも寺を開きました。永禄年代(1558—70)の初めのころ信濃に入り塩尻市の長興寺・同市西福寺も開きました。長興寺に残る才応総芸和尚頂相〔ちんそう〕からの印象は、立派な体格で何事も見抜いてしまうような透き通った眼力を持つ優れた禅僧です。


才応総芸和尚がなぜ浦野にきて東昌寺を起こしたのか、おそらく、浦野の領主浦野美濃守友久の熱心な求めがあったからでしょう。年代ははっきりしませんが、永禄八年(1565)以後、同十二年四月八日までの間です。才応総芸和尚は、寺を興すとともに、東昌寺の住職の公用に用いる礼装用の法衣〔ほうえ〕(袈裟)をつくりました。青色の市松模様の法衣袋に袈裟が入れられています。


袈裟は九条の布をはぎ、布は白色の絹地に水紋が浮き、まどは赤地のどん子〔す〕にぶどうの唐草文〔からくさもん〕が織り出されている立派な布です。法衣袋の蓋の裏にはこの布〔ぬの〕のことと法衣の由来を書き、才応の文字の上に壺印を、中央部に「仏法僧宝」の朱印を押し、花押〔かおう〕を自署しています。才応総芸和尚は、この法衣を調えてから40日ほどたった永禄十二年五月十九日、永久の眠りにつかれました。


東昌二世保山昌全の代、永禄十三年三月には、たはさま・大もり・善哉・いろへ(色部)のみこ田(仁古田)衆が法被〔はっぴ〕を寄進しました。法被〔はっぴ〕は禅宗で用いるもので、椅子〔いす〕を覆い包む布のことで絹の布で作られています。


浦野氏の一族浦野源市郎—法名光桂宗玉は、天正十年三月五日に亡くなり東昌寺に葬られました。源市郎の後室は仏門に入って法名を天窓寿清と称し、亡き夫の一周忌にと心をこめて刺繍〔ししゅう〕した打敷を作り、寺に納めました。この打敷の裏面には、「光桂宗玉禅定門の菩提頓證〔ぼたいとんしょう〕のために東昌の精舎〔しょうじゃ〕に寄附します。


天窓寿清が自分で刺繍しました」という意味のことが、一周忌にあたる天正十一年暮春〔ぼしゅん〕五日の日付で書かれています。全面に美しい花が咲き、たわわに実がなり、鳥が飛び交っています。桐に宿る鳳凰〔ほうおう〕を表して天界の夫の極楽往生〔ごくらくおうじょう〕を祈ったものと思われます。


その他、写真のような壁掛が二枚、写真は載せてありませんが、別布で額ぶちにふち取った坐具(坐臥〔ざが〕するときに敷く長方形の布製の敷物)二具、たいへんに破損してしまった法被などがあります。才応総芸の法衣・法衣の袋・みこ田衆寄進の法被・天窓寿清自繍の打敷・破損した法被・壁掛(二枚)・坐具(二具)の七領〔かさね〕が市指定の文化財です。右の外、指定外ですが、伝浦野友久の印も伝存されています。