カテゴリ 閉じる

武田信玄武将の起請文(生島足島神社文書)

種別 :国指定 重要文化財 古文書
指定日:昭和62年6月6日
所在地:下之郷701 生島足島神社
年代 :室町時代後期から江戸時代初期

解説

写真の起請文は、武田信玄が配下の武将を、下郷(下之郷のこと。以下同じ)諏訪大明神(生島足島神社)へ集めて、信玄に絶対〔ぜったい〕〔そむ〕かぬことを、神前で誓〔ちか〕わせたものです。誓いの言葉を牛王紙〔ごおうし〕の裏に書き、血判〔けっぱん〕を押して、差し出させたもので、全国的に有名なものです。


永禄九・十年(1567)という同じ時期に差し出した起請文が、一か所にこれほど多く残っていることは、他に例を見ない貴重なものということで、起請文八三通(永禄九年三通 永禄十年八〇通)と、同社に残る古文書(一一通)をあわせた九四通が「生島足島神社文書」として、国の重要文化財〔じゅうようぶんかざい〕に指定されました。


この起請文は、江戸時代の延宝九年(1681)に、生島足島神社本殿を修繕〔しゅうぜん〕しているとき発見されました。


写真は、そのうちの三通です。上の起請文は当時室賀郷(現上田市室賀)一帯の領主であった、室賀信俊〔むろがのぶとし〕が差し出したものであり、中は信俊の弟経秀〔つねひで〕たちが、連名で差し出したものです。下は北安曇〔あずみ〕(現大町市周辺)一帯の領主であった、仁科盛政〔にしなもりまさ〕の差し出したものです。盛政の起請文には、牛王紙の鳥〔からす〕の形などが、はっきり見えています。


牛王紙というのは、鳥〔からす〕をたくさん刷りこんだ特別の紙のことで、起請文を書くときの紙として広く使われました。紀伊〔きい〕(和歌山県)の熊野神社で出したものが最も有名です。信玄配下武将の起請文にも、熊野の牛王紙(熊野牛王宝印〔ほういん〕)が使われています。


信俊が差し出した起請文には「一、信玄様には決して謀叛〔むほん〕いたしません。一、長尾輝虎〔ながおてるとら〕(上杉謙信〔けんしん〕)をはじめ敵方より、どんなに誘〔さそ〕われても、同心しません。一、甲州・信州・西上州三か国の者が、背〔そむ〕くようなことを考えても、私は信玄様を守ります。」など六か条にわたり、誓いの言葉が書かれています。


そのあとの神文〔しんもん〕の部分には、誓いをする神々の名を書き上げ、「若〔も〕し誓いに背いたときにはどのような神罰〔しんばつ〕を受けてもかまいません。」とも記されています。ほかの起請文も、このような形式のものが大部分です。


差し出す宛名は直接信玄ではなく、信俊や経秀たちは、重臣の山県三郎兵衛宛ですが、盛政は重臣の跡部大炊助〔あとべおおいのすけ〕宛となっているなど、信玄は重臣数名に宛て差し出させ、重臣同志でお互いに張り合うようにしむけています。


信俊・経秀・盛政など、どれも名前の下には花押〔かおう〕(書き判〔はん〕)のほか、指を切った血で、判が押してあるので血判といいます。血判の生々しいあとから、起請者の気魄〔きはく〕が伝わってきます。


なお信俊の弟経秀・正吉など四人連名の起請文の第六条には「山城守〔やましろのかみ〕(信俊)の所へ、敵方よりさそいの文書などが来たときには、隠すことなくすぐに、武田方へ申し上げます。」と誓わせ、室賀氏の総領〔そうりょう〕である兄信俊を、弟たちに見張〔みは〕らせています。


信玄がこのような起請文をなぜ書かせたのかについてはつぎのように考えられています。信濃国をほとんど勢力下におさめた信玄が、次に西上州を攻めたあと駿河〔するが〕(静岡県)へ進出するための戦を計画しました。このとき長男の義信〔よしのぶ〕は、今川攻めに反対し、永禄八年の九月のころ幽閉される身となりました。そこで信玄は家臣たちの離反〔りはん〕・分裂〔ぶんれつ〕・謀叛〔むほん〕などを大変恐れて、これをさけるために誓わせたと伝えられています。


また、生島足島神社に配下の武将たちを集めたのは、差し出させた起請者二百三十余名のうち、信州出身と考えられる者の数が約百三十名で、最も多く、次が西上州・甲州の順であることから、上杉方よりさそいの手が伸びやすい信州方面を特に警戒していたからであり、そして、信州では格式が高く、越後の上杉方にも近い、生島足島神社が選ばれたと考えられています。


起請文の例として紹介した室賀氏は、はじめ坂木〔さかき〕(埴科郡坂城町)を本拠とする村上義清〔むらかみよしきよ〕の配下でしたが、天文二十二年(1553)信玄に攻められた義清が、上杉謙信をたよって、越後に落ちのびたので、信俊は武田氏の配下となって、信州先方衆の武将の一人として活躍しました。


室賀氏の館〔やかた〕や山城〔やまじろ〕は、大手橋・城坂・上の屋敷・宿やしき・ごくもん坂・外堀など、当時をしのぶ多くの地名を残しています。日常の住いとなった館は原畑〔はらばたけ〕城(上の屋敷)と呼ばれ、山城は笹洞〔ささぼら〕城と言います。一般には両方をあわせて、室賀氏城館跡と呼んでいます。


このほか上田小県地方の武将などで、起請文を差し出した者としては、小泉重永(上田市小泉を本拠地とした)とその一族。浦野幸次(上田市浦野を本拠地とした)とその一族。松鷂軒〔しょうようけん〕常安(東部町称津を本拠地とした)とその一族。海野衆(神尾氏・奈良本氏・常田氏・尾山氏・石井氏・桜井氏など)などがあります。


これ等の起請文は、原本〔げんぽん〕と同じ大きさで複製されたものが、同神社境内にある歌舞伎舞台の中に展示されています。舞台上演のとき以外は常設です。生々しい血判のあとや、戦国動乱の世にあって、信玄が配下の武将を支配するのに、どれほど苦心したのかなどを、うかがい知ることができます。