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真田信幸寄進状(生島足島神社文書)

種別 :国指定 重要文化財 古文書
指定日:昭和62年6月6日
所在地:下之郷701 生島足島神社
年代 :室町時代後期から江戸時代初期

解説

この文書は上田城主となった真田信幸(信之〔のぶゆき〕)が、有名な関ヶ原合戦の翌年慶長〔けいちょう〕六年(1601)八月、下之郷大明神(生島足島神社)に、「社の領地として四十貫文の土地を寄進するから、ますます熱心に祈念をするように。」と、六供僧〔ろっくそう〕(下之郷大明神の神宮寺に仕える僧のこと)や神官に申し伝えた寄進状です。


文書は横に二つに折った折紙の形式になっています。

寄進状に信幸の氏名は書かれていませんが、日付の下の四角の印が、信幸の使っていた朱色の印ですので、信幸の出したものとわかります。


年号も書かれていませんが、八月十一日の右上に辛丑〔かのとうし〕と干支〔えと〕が記されていて、この年に信幸は家臣・社寺などに、数多くの寄進状・宛行状〔あてがいじょう〕(領地を与えるときに出す文書)を出していることから、慶長六年であることは明らかです。


ではなぜこの年、下之郷大明神に寄進状を出したのでしょう。実はこのころ徳川方についた信幸は、豊臣方に従った父昌幸〔まさゆき〕・弟信繁〔のぶしげ〕(幸村〔ゆきむら〕)とたもとをわかちます。そこで父昌幸の領地小県郡は、家康に没収され、慶長五年(1600)七月二十七日付で、信幸に与えられました。そのあと関ヶ原合戦(慶長五年九月十五日)で豊臣方は破れたため、父と弟は紀州高野山〔きしゅうこうやさん〕(和歌山県)へ流されました。


父にかわって上田城主となった信幸は、先〔ま〕ず重臣たちに慶長六年八月二日から五日の問に土地を与え、同月十日には伊勢豊受〔いせとようけ〕大神宮に土地を寄進しました。続いて同月十一日には下之郷大明神に、四十貫文という多くの土地を寄進したのです。なお一日おくれて十二日には、小県郡内の主な社寺や代官級の家臣に、それぞれ土地を与えています。このことは真田氏が下之郷大明神を、厚く信仰していたことを物語っています。


こうした文書を通して、上田城主となった信幸が、領地をどのように治〔おさ〕めようとしていたのかをうかがい知ることができる貴重な文書です。

(信幸がなぜ信之と名をかえたのかについては次の「真田信幸朱印状」に記してあります。