この文書は上田城主真田信幸(信之)が、慶長十三年(1608)六月十三日、下之郷大明神(生島足島神社)の神主の工藤氏に宛〔あて〕て、社殿を造るための費用をつくり出す土地を、預け置くことを申し渡した文書です。信幸がいつも使っていた朱色の四角形の印が捺〔お〕してあるので「信幸朱印状」といいます。
文書のはじめに「定〔さだめ〕」と書いてありますが、領主などが物事をとりきめて、家臣や神社・寺院などに与える文書の、はじめに記します。定書〔さだめがき〕ともいいます。六月十三日の日付の右上に「申〔さる〕」と書いてあるのは慶長十三年が、さるの年にあたるためです。
「拾五貫文」と書いた下に「下郷本願分」と記されています。
生島足島神社の神池と南の道との間に、現在もお宮があります。この境内社を本願宮といいます。本願宮の社殿を造るための費用を捻出〔ねんしゅつ〕する土地として十五貫文を、社側に預けて置くから、毎年の修理などにかかった経費の支出明細を、奉行〔ぶぎょう〕(役人)に提出すること。なお細かいことについては木村土佐守〔とさのかみ〕・石井喜左衛門〔きざえもん〕(いずれも信幸の重臣)から申し渡す。」と書かれています。
寄進のことについては、この二年後、同社の攝社〔せっしゃ〕(本社に関係ある神を祀った社)である諏訪社〔すわしゃ〕本殿が、真田信之の寄進で、慶長十五年(1610)三月に再建〔さいけん〕された棟札〔むなふだ〕があります。
信幸を信之〔のぶゆき〕と改めたことについては、徳川家康にそむいた父昌幸の幸と、信幸の幸が同じということで、家康に対し父の名をはばかって、之〔ゆき〕の字に改めたという説があります。慶長五年の関ヶ原合戦後の文書は、ほとんど信之となっていますが、この文書は珍らしく信幸と記されています。