この文書は上田城主が真田氏から、仙石氏に替〔か〕わった翌年の元和〔げんな〕九年(1623)閏〔うるう〕八月二十日に、下之郷大明神(生島足島神社)に仕える供僧(供奉僧または宮僧のこと)と社人(神官)が連名で、社の領地を増してほしいと、奉行所〔ぶぎょうしょ〕(役所)へ願い出た文書の案〔あん〕(写し)です。
写しであることは供僧や社人の下に、印が捺〔お〕してないことからわかります。
はじめに「御目安之事〔おんめやすのこと〕」と書いてありますが、一般に文書を見やすく箇条書にして出す書付をいいました。江戸時代には訴状〔そじょう〕(訴〔うった〕えの書付)を目安といいました。
八月廿日の日付の上の「壬〔うるう〕」は閏〔うるう〕の略字です。太陰暦で十二か月のほかに加えた月を閏月〔うるうづき〕と呼びます。元和九年は八月が重なり、閏八月がありました。年号が元和九年であることは、目安を読むとわかってきます。
ところで目安には次のようなことが書かれています。
「謹〔つつし〕んで申し上げます。信州小県郡塩田之庄の下之郷の社の領地のことですが、甲州〔こうしゅう〕(山梨県)の武田信玄・同勝頼が治めていた時代には、百三貫文の土地をいただいていました。なお小県郡や佐久郡をはじめ河中島平まで、盗人〔ぬすびと〕、ざう物〔ぶつ〕(盗みとったもの)までも、当社に奉納してもらっていました。
近年には(真田氏の代には)五十五貫文の社領を寄進してもらっていました。ところが旧冬より(仙石氏に替〔か〕わった元和八年の冬からは)二十七貫五百文を寄進してもらうだけになってしまいました。過分の御配慮ですので、毎日神前において、熱心にご祈祷〔きとう〕を致しています。
御願いですが、どうか、前々のように五十五貫文の社領を寄進いただければ、末代まで有難く存じます。」
この目安によると、真田氏から仙石氏へと城主が替わったとき、仙石氏は新しい領地支配に取り組み、領地内の寺社領などを思い切って、少くしてしまいました。小諸から移って来た仙石氏が、新しい領内を治めることに対し、真田氏と異なった厳しい姿勢でのぞんでいる様子を知ることのできる、興味深い文書です。