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武田信玄願文

種別 :国重要文化財 古文書
指定日:昭和62・6・6
所在地:下之郷

解説

この文書は甲斐〔かい〕(山梨県)の武田信玄が、越後〔えちご〕(新潟県)の長尾景虎〔ながおかげとら〕(上杉謙信〔うえすぎけんしん〕)と、川中島で決戦しようと覚悟をきめて、下郷諏訪大明神(生島足島神社)に、戦いに是非勝たせてくださいと神前に供えた願文という珍らしい文書です。


戦国時代の天文二十二年(1553)信玄が坂木〔さかき〕の葛尾城〔かつらおじょう〕(埴科郡坂城町)や塩田城(上田市東前山)を攻め落としたため、城主村上義清は、謙信を頼って越後へ落ちのびました。そこで信玄は塩田城の近くの由緒ある下郷諏訪大明神に、お礼参りをして、神社に仕〔つか〕える神官や供僧に宛〔あて〕て、安堵状〔あんどじょう〕を出しました。(「武田信玄安堵状」参照)


このあと信玄と謙信の戦いは、川中島平で何回もくりかえされましたが、なかなか勝負がつきません。

そこで信玄は謙信に勝って、北信濃を武田氏の勢力下に治めるためには、どうしても謙信と決戦をしなくてはならないと覚悟をきめて、世に名高い川中島大合戦の二年前にあたる、永禄二年(1559)九月一日、下郷諏訪大明神に「長尾景虎(謙信)との戦いに勝たせてください。」と、願文をささげたわけです。


この願文は信玄自筆のものといわれますが、漢字ばかりの難しい文で書かれているので、わかりやすい言葉に書きなおしてみると、およそ次のようなことが記されています。


「謹〔つつし〕んで 下郷諏訪法性大明神に申し上げます。私(信玄)は越後の軍勢(景虎)が攻めてくるのを待って防ぎ戦うべきかどうか、ト〔うらな〕ってもらいました。そこでこの天の教えにしたがって、越後の軍勢と戦います。どうか私の軍が思い通りに勝つことができて、景虎を北へ追いはらい、滅ぼすことができるよう、下之郷両社のご加護をお願い致します。もし戦いに勝って帰ることができましたら、己未〔つちのとひつじ〕の年(永禄二年)より、十か年間毎年、青銅銭を、十緡〔さし〕ずつ社殿の修繕〔しゅうぜん〕用として、奉納いたします。」(緡〔さし〕は銭の穴に通す細縄。一緡は孔あき銭百枚を縄にさして通したもので百文にあたる)。


信玄がこの願文を下郷諏訪大明神にささげたあと、激しい川中島大決戦の行われたのは、永禄四年(1561)九月十日のことでした。謙信を打ち負かそうと、信玄が並々ならぬ決意で、戦に立ち向おうとした気持ちを、願文から読み取ることができます。


願文は懸紙〔かけがみ〕(包み紙)に包まれ、包み紙には「下郷明神に奉納する願状沙弥〔しゃみ〕」と書かれています。これは信玄が入道〔にゅうどう〕(仏道に入って修行すること)したので沙弥(出家したがまだ正式の僧になっていない男子)と書きました。


願文の終わりに「武田徳栄軒信玄」と氏名を書き、その下に花押〔かおう〕(書〔か〕き判〔はん〕。今のサインにあたります)を書いていますが、この年、決意を新たにした武田晴信〔はるのぶ〕が、入道して徳栄軒信玄と名乗るようになったといわれています。