甲斐(山梨県)の武田信玄が上田小県地方を攻め始めたのは天文十七年の二月からです。天文二十二年(1553)八月五日、信玄は村上義清方〔むらかみよしきよがた〕が守る、塩田城(上田市東前山〉を攻め落として、ようやく東信濃(小県や佐久など)を勢力下に治めることができました。
写真の文書は、塩田城を落としたあと、しばらくこの地にとどまっていたとき下之郷上下宮(生島足島神社)に、「神社の土地やお祭りは、今までの通り認めるから、安心して勤めるように。」と、同社に仕える神官や供僧に宛〔あて〕て出した安堵状です。
信玄は同年八月十日、家臣の真田幸隆〔さなだゆきたか〕(上田城を築いた昌幸の父)ほか、上田小県地方の主な武将に褒美〔ほうび〕として、土地を与えました。続いて八月十四日下之郷上下宮の神主や供僧に宛〔あ〕て、この安堵状を出したわけです。
甲斐から幾度となく信濃へ出向いた信玄が、ようやく東信濃を、勢力下に治めた喜びが伝わってくる文書です。
この安堵状に信玄の氏名は、書かれていませんが、文書の最初に、信玄自身の花押〔かおう〕(書〔か〕き判〔はん〕。今のサインにあたります)が書かれているのでわかります。また文書は横に二つに折った、折紙〔おりがみ〕の形式になっています。