この文書は真田昌幸が上田城を築いてから暫〔しばらく〕くたった天正十四年(1586)ごろ、下之郷大明神(生島足島神社)で使う、柳の木を坂木筋〔さかきすじ〕(旧坂城町一帯)・庄内筋〔しょうないすじ〕(旧更級郡村上村一帯)・塩田筋(塩田平一帯)の各郷などで伐〔き〕ることを認めた書付です。
文書に真田昌幸の氏名は書いてありませんが、日付の下に押してある四角形の朱色の印が、昌幸の使っていたものですので、昌幸の出した朱印状であることがわかります。
年号もありませんが、昌幸は天正十二年(1584)徳川家康から沼田城などを北条氏に渡すようにと、無理なことを命じられたため、家康と手を切り、上杉景勝〔かげかつ〕(謙信〔けんしん〕の子ども)と手を結びます。このとき昌幸は次男の信繁〔のぶしげ〕(幸村)を人質として、上杉方へ送ります。そこで景勝は天正十三年七月十五日付で昌幸に「沼田・吾妻(ともに群馬県)・小県のほか、坂木・庄内も昌幸の領地として認める。」と申し渡しています。
このような情勢の中で、領内を治めることにも心をくだいた昌幸が天正十四年ごろ、下之郷大明神で使う柳の木を伐ることを許し、この朱印状を出したと伝えられています。
写真のように文書は横に二つに折った折紙の形式です。保証することを「折紙づき」というのは、このようなことからと言われています。
生島足島神社には東・西両参道の入口に、朱塗〔しゅぬ〕りの神門〔しんもん〕があります。この神門は昔は必ず柳の材木で年々建て替えられ、また東西両神門へ掲げる神名板〔しんめいばん〕(生島神・足島神・諏訪上下大神など十七柱の神名を書いた厚い板)も毎年新調したので、大きい柳の木が必要でした。
そこで昌幸は坂木筋などの村々に対して、領地内で最も格式が高く由緒ある下之郷大明神の祭礼が立派〔りっぱ〕に行われるようにと、柳の木を伐ることを認めたわけです。なお当時行われた同社の祭のあり方を知る上でも、数少ない貴重な文書です。