この文書は真田昌幸の家臣であった小幡源吾信繁〔こばたけんごのぶしげ〕が、天正十九年(1591)十二月のある日、下之郷諏訪大明神(生島足島神社)に御祈祷〔ごきとう〕していただくため、土地を寄進しますと約束した、お願いの文書です。願文には「源吾が小島郷(上田市小島)を拝領したので、五百文の土地を寄進いたします。
どうか一族と家来七人の武運長久加〔ぶうんちょうきゅう〕や息災延命〔そくさいえんめい〕と、源吾の十七歳の危難を除〔のぞ〕いてください。なお繁栄することができて本拠地へ還住〔げんじゅう〕したら、本領から当社に千疋〔びき〕(一疋は十文、千疋は十貫文)を寄進します。どうかお守りください。」としたためてあります。
天正十九年の干支〔えと〕は辛卯〔かのとう〕が正しいのに、なぜ壬丁〔みずのえひのと〕と書いたのか不明です。ろう月は陰暦十二月の別のいい方です。
小幡氏の本拠地〔ほんきょち〕は上野国〔こうづけのくに〕(群馬県)甘楽郡〔かんらぐん〕小幡で、はじめ武田信玄に仕えましたが、武田氏滅亡後、真田氏の配下となり重臣として仕えています。信繁はこの一族と思われます。