牛頭天王之祭文には、信濃国分寺で八日堂縁日に配られている「蘇民将来符」〔そみんしょうらいふ〕の謂〔いわ〕れが書かれています。全国に残る牛頭天王祭文の写〔うつ〕しのなかで、最古といわれるものです。長い祭文ですので巻物になっていて、祭文の終わりに、室町時代の文明十二年(1480)に書き写したと記されています。
牛頭天王はインドで御釈迦〔おしゃか〕様が、悟〔さと〕りをひらかれた場所と伝える祇園精舎〔ぎおんしょうじゃ〕を、お守りする神様といわれます。この牛頭天王にお願いする祭文ですので、牛頭天王之祭文といいます。
この祭文は、文明十二年に書き写されたものか、それとも江戸時代になってから書き写されたものなのか、長い間はっきりしませんでした。祭文の原〔げんぽん〕本の所在は不明ですが、書かれている片仮名や文体などから、間違いなく文明年間当時のものであることがわかりました。
牛頭天王祭文の写しは、今のところ全国で四通見つかっていますが、その中で信濃国分寺所蔵の祭文が、最も古くて重要なものであることも明らかになりました。
祭文は願いごとをかなえてもらうために、神前で読み上げる祝詞〔のりと〕のことです。符〔ふ〕は災難除〔さいなんよ〕けそのほかのことで、神社や寺で配〔くば〕るおふだのことです。
この祭文は初めの部分に、牛頭天王や八人の王子をお迎えしてお願いするため、お酒をお供えすることが書かれています。
さらに、牛頭天王は后〔きさき〕をみつけるために旅に出てまた帰ってきます。金持ちだがいじわるの小丹長者に、宿をことわられたこと、貧乏だが情け深い蘇民将来に、宿を借してもらったこと、いじわるな小丹長者は、牛頭天王に滅ぼされるが、小丹長者の嫁になっていた蘇民将来の娘や一族は、牛頭天王から言われた通り、柳の札に「蘇民将来之子孫也」と書いた札を、標〔しるし〕としてかけていたため、助けられたこと等が、くわしく書かれています。
終わりのほうは、牛頭天王や王子たちに、災難除〔さいなんよ〕けや病気を治してもらうことをお願いするという筋書になっています。
牛頭天王の信仰は、インドから中国に伝わり、さらに我が国では神話と結びつけられて、牛頭天王は武塔神〔むとうのかみ〕や須佐雄命〔すさのおのみこと〕であると考えられたり、薬師如来〔やくしにょらい〕が民を救うために、姿をかえて現れたのが、牛頭天王であるなどと伝えられるようになりました。
また、我が国で最も古い時代に牛頭天王を祀〔まつ〕ったとされているのは、広峰神社(兵庫県)や津島神社(愛知県)であると言われています。そのあと平安時代に、京都の八坂郷に牛頭天王を迎えて、祇園社〔ぎおんしゃ〕(現在の京都東山八坂神社)として祀り、疫病除〔やくびょうよ〕けの神として信仰されるようになったと伝えられています。
この信仰が次第に全国へ広まり、疫病除〔やくびょうよ〕けだけでなく、息災延命〔そくさいえんめい〕・七難即滅〔なんそくめつ〕・子孫繁昌〔しそんはんじょう〕など、もろもろの御利益〔ごりやく〕がさずかるというようにつけ加わりながら、最初は短かった祭文が、だんだん長い文になったり、蘇民将来符も、はじめ柳の札だったものが、いろいろ工夫しながら作られて、日本各地の神社や寺で配られるようになりました。
今信濃国分寺の縁日に配られている、六角形の蘇民将来符(写真参照)は、全国でも最も形がととのった優〔すぐ〕れたものと言われています。