この文書は武田信玄が「昨年開善寺に出した定書〔さだめがき〕(前頁の「開善寺宛武田信玄定書」)の通り、今年(永禄六年 1563)から寺に土地を返したり、寄進する。」と、開善寺の別当〔べっとう〕に申し渡した寄進状です。
この寄進状では昨年出した定書のことを願書と記しています。
寄進状を読むと「先〔さき〕に(昨年)出した願書の通り、十坊(僧の住む十の住居)や太鼓免(太鼓を打って仏事を行う費用を生み出す土地)の土地として、三十六貫五百文を、今年から返すことにするから、臨時の法事として仏前で毎日法華妙典〔ほっけみょうてん〕(法華経)二巻を唱えるようにすること。
もしそれによって、武田氏の武運が長久に栄え、治めている領地が平穏〔へいおん〕になったら、残っている寺の土地も、前にきめた通り寄進することにする。」と書かれています。
このことにより、武田氏が天文10年(1541)に、海野氏を攻め滅〔ほろ〕ぼしたとき以後、開善寺の寺領も没収〔ぼっしゅう〕されていたことがわかります。
このような文書によって、武田信玄が占領した地域の、寺社を大事に扱うことを、地元の人心を安定させる方法の一つと考えていたことを、うかがい知ることができます。
なお前頁の「定書」の宛名は、開善寺大坊となっていますが、この寄進状では、別当御房となっています。別当はこの寺の事務長のような役です。したがって開善寺は大坊と別当によって管理されていた、大きな寺であったことがわかります。
開善寺の文字は、ほかに、海善寺・海禅寺とも書かれたものがあります。