この文書は戦国時代の永禄九年(1566)武田信玄が、重臣の三枝〔さいぐさ〕宗四郎昌貞に命じて「武田方の軍勢が向源寺(当時上田原にあった)境内で陣をとることを禁じ、もし命令に背〔そむ〕く者がいたら、子細〔しさい〕(くわしい事情)を申し出るように。」と、向源寺に伝えた朱印状です。
文書に信玄の氏名がありませんが、日付の下の丸い朱印(竜丸〔たつまる〕の朱印ともいう)は、信玄の使っていたものですので「武田信玄朱印状」といいます。また、日付の上の潤〔うるおう〕は閏〔うるう〕(壬)月の字のつもりでしょう。(閏月については(「下之郷供僧社人目安案」の説明を参照)
信玄は甲斐国〔かいのくに〕(山梨県)から信濃国へ、幾度か軍勢を出して、合戦を繰りかえしています。このようなとき勢力下におさめた地域の主な寺や社を大事に扱うことが、戦〔いくさ〕で不安になっている地元住民の気持ちを安定させるために、大切であることを心得ていて、特に寺社に迷惑がかからぬよう、心配りをしていたことを物語る文書として貴重なものです。
寺伝によると、上田原にあった向源寺(浄土真宗)が、今の場所に移ったのは、江戸時代のはじめ寛永年間(1624—44)といわれていますから上田原にお寺があった時のことになります。