写真は武田信玄が永禄十一年(1568)に、塩野神社の神主に宛〔あ〕て、土地を寄進〔きしん〕することを定めて出した文書です。信玄の氏名がありませんが、卯月〔うづき〕(四月)二十一日の日付の下に、信玄が使っていた、丸い朱印(竜丸の朱印)が押〔お〕してあるので、信玄の朱印状とわかります。また土地を寄進した文書ですので、寄進状とも言います。
この朱印状には「塩田の郷の諏訪社に十貫文の土地のほか、来年の秋からはさらに十貫文の土地を寄進するので、これにふさわしい祭礼〔さいれい〕を行うように。また越後〔えちご〕(新潟県)との国境に新しく城を築くので、無事に築くことが出来たら、重ねて土地を寄進するから、祭礼をしっかり行うように。」と定めています。
塩野神社は戦国時代には、諏訪大明神とか諏訪社と呼ばれていました。信玄は格式の高かったこの社に、重臣の跡部美作守〔あとべみまさかのかみ〕に命じて土地を寄進し、武田氏の武運長久を祈らせたわけです。
信玄は塩野神社に朱印状を出す以前、越後の上杉謙信〔うえすぎけんしん〕との決戦に臨〔のぞ〕むため、永禄二年(1559)下之郷の生島足島神社にも、願文〔がんもん〕を捧〔ささ〕げて、戦勝を祈っています。(「武田信玄願文」参照)
信玄は佐久や小県など東信濃を勢力下に治めると、主な社や寺に土地を寄進し、武運を祈らせたり、人心の安定をはかっています。こうした文書から、信玄の越後攻めの苦心と決意をうかがい知ることができます。