この文書は戦国時代の元亀三年(1572)に、武田信玄の重臣である春日虎綱〔かすがとらつな〕と内藤昌豊〔ないとうまさとよ〕が、信玄の命をうけて、小県の信玄配下の武将に宛〔あ〕て「武田氏が支配している信濃国の高井・更級・埴科などから逃げ出したり追放された者で、若し近辺をうろついていたら、必ず召捕〔めしとら〕えて知らせるように。」と、申し付けた朱印状です。
日付の下に、信玄の朱印(竜丸の朱印)が捺〔お〕してあります。
書き並べた名前の上に、村名や闕落〔かけおち〕(欠落、逃げる)と記してありますが、戦国武将は支配する土地の農民から、年貢を取りたてたり、諸役〔しょやく〕(城や道などを造るため人足として出る役目など)を申し付けたため、農民たちは厳〔きび〕しい年貢や、過重〔かじゅう〕な諸役にたまりかねて、欠落〔かけおち〕する者が多くいました。
この文書でも小県方面へ欠落したと思われる農民などを、見つけ次第捕えて連れ戻すため、武田氏配下の小県の主な土豪たちに、申しつけたものです。
宛名を見ると、松鷂軒〔しょうようけん〕(禰津氏)・真田氏・海野衆・室賀氏・浦野氏・小泉氏など、当時の小県の有力武将の名が並んでいます。塩田平や依田窪の土豪の氏名が見えないのは、当時これ等の地域は、武田氏直轄地〔ちょっかつち〕であったためでしょう。