江戸時代前期の正保四年(1647)に作られた、信濃国(長野県)の最も古く、また大変詳しい絵図です。
国絵図とは江戸幕府が、全国の大名等に命じて作成させた甲斐国〔かいのくに〕(山梨県)・越後国〔えちごのくに〕(新潟県)などの昔の国ごとの地図のことを言います。幕府は正保元年(1644)、元禄〔げんろく〕九年(1696)、天保〔てんぽ〕六年(1835)の三回、命令を出して国絵図を作らせていますので、これが最初の国絵図になります。
信濃国絵図については、松代藩〔まつしろはん〕(真田〔さなだ〕氏)・上田藩(仙石〔せんごく〕氏)・松本藩(水野〔みずの〕氏)等の大名〔だいみょう〕や幕府の代官〔だいかん〕、あわせて十人が分担して作成し正保四年に幕府へ提出しました。
この絵図は当時の上田藩主仙石家に伝わったもので、写し、または下絵図〔したえず〕と見られています。しかし、幕府に保管されていた正保の国絵図の正本〔せいほん〕は現存しませんので、この図は写しとは言っても、信濃国絵図としては最初の、しかも正式な絵図として貴重なものです。
薄い黄色の地〔じ〕に墨〔すみ〕で書いた上に、川や湖は青、山は茶色や緑、道路は赤であらわされています。一里塚〔いちりづか〕(街道〔かいどう〕の両側に一里、約四㎞ごとに築かれた小山)も黒丸で記されています。また、村名とその村の石高〔こくだか〕(米の収穫量になおした田畑の生産高)は楕円〔だえん〕(小判形〔こばんがた〕)で囲み、郡別の色を塗〔ぬ〕り、城下町〔じょうかまち〕については四角で囲んでいます。郡境は墨であらわされ、隣接する国々については色分けされています。
大きさは、たてが8.54m、横が4.64mという大変大きなもので、縮尺は全国統一された規格どおり、一里〔いちり〕を六寸〔すん〕(約20cm)とする21,600分の1で作られています。また、余白〔よはく〕の部分には小県郡〔ちいさがたぐん〕(六万四九五九石〔こく〕余り)など、郡ごとの石高〔こくだか〕と信濃の総石高(五四万四七七〇石余り〉および幕府領・大名領・旗本領・寺社領の領主別の石高を並べて書き、最後に「正保四丁亥〔ひのとい〕年三月十一日」と提出した日を記しています。
なお、この国絵図作成とあわせて信濃の全村の水田と畑の石高を記した「信濃国郷村〔ごうそん〕帳」が作成され、幕府へ提出されました。これについても控〔ひか〕えの帳面が伝わっており(上田市立博物館蔵)、やはり、信濃の最古の郷村帳として貴重な史料とされています。