上田城下町のうち海野町〔うんのまち〕の問屋を勤めた柳沢家の、代々の当主が書き綴〔つづ〕った仕事上の日誌で、次頁〔ページ〕の原町〔はらまち〕滝沢家日記と同様のものです。延宝〔えんぽう〕九年(1681)から明治六年(1873)まで二百年近くにもわたっていて、百四十冊にものぼる記録です。
北国街道〔ほっこくかいどう〕の宿場町〔しゅくばまち〕でもあった上田では、海野町〔うんのまち〕と原町が一か月交代で、荷物の輸送(継立〔つぎたて〕)などの仕事にあたりました。その責任者が問屋で、海野町と原町にそれぞれ置かれていました。
上田では海野町・原町の両問屋が町方〔まちかた〕(町人〔ちょうにん〕)の長〔ちょう〕の役目も兼ねていたのですが、海野町問屋の担当した範囲は、海野町・横町〔よこまち〕・鍛冶町〔かじまち〕でした。なお、海野町問屋柳沢家は、上田宿の本陣〔ほんじん〕(参勤交代〔さんきんこうたい〕の大名〔だいみょう〕等の宿舎)も兼ねていました。
海野町問屋柳沢家日記の主な内容は、やはり原町のものと同じく、藩よりのお触〔ふ〕れ(通達)の書きとめや、海野町・横町・鍛冶町から藩へ提出した届け・願書の控えなどです。当時のこれらの町の人々の転入・転出等の動きから、年中行事・事件や事故・訴訟等、種々様々なことがらにわたっています。
江戸時代前期より明治の初めまでの記録が、ほぼそろって残っていますので、上田の町の歴史を知る上で、原町問屋滝沢家日記と並ぶ基本的な重要史料とされています。