上田城下町のうち、原町の問屋を勤めた滝沢家代々の当主が書き綴〔つづ〕った仕事上の日誌です。年代は寛文〔かんぶん〕三年(1663)から明治二年(1869)まで二百年以上にわたっていて、その数は百五十七冊にものぼります。
北国街道〔ほっこくかいどう〕の宿場町〔しゅくばまち〕でもあった上田では、原町と海野町〔うんのまち〕が一か月交代で、荷物の輸送(継立〔つぎたて〕)などの仕事にあたりました。その責任者が問屋で、原町と海野町それぞれに置かれていました。上田では、この問屋が町方〔まちかた〕(町人〔ちょうにん〕)の長〔ちょう〕として、村方〔むらかた〕の庄屋〔しょうや〕(名主〔なぬし〕)・割番〔わりばん〕(大庄屋)の役にもあたっています。原町問屋の担当した 範囲は、原町・柳町〔やなぎまち〕・田町〔たまち〕・紺屋町〔こんやまち〕です。
日記の主な内容は藩よりのお触〔ふ〕れ(通達)の書きとめや、原町ほかの受け持ちの町(町民)から藩へ提出した届け・願書の控えなどです。当時の上田の町の人々の、結婚・離婚・転入・転出・旅行等の動きから、米や酒の値段、祇園祭〔ぎおんさい〕等の年中行事、事件や事故、訴訟等、種々様々なことがらにわたっています。
江戸時代前期という大変古い時期から、明治の初めまでの記録がほぼそろって残っていますので、「海野町〔うんのまち〕柳沢家日記」と並んで、上田の町の歴史を語る最も基本的な古文書〔こもんじょ〕とされています。