大きな目で長刀〔なぎなた〕を振り回す弁慶と、身軽く欄干の上に舞い立つ牛若丸の出会いの場を図柄にした、この見事な幕は、農民の手で演じられていた地芝居の舞台の引幕に使われたものです。大道具役の幕ひきが、チョンチョンと拍子木に合わせて開閉した当時の形が立派に残されています。しかも「文政六壬未〔みずのえひつじ〕年五月吉日」と、幕の左隅に製作年月の白い抜き染がみられます。(文政六年は癸未〔みずのとひつじ〕なので、壬未はちがっています)また、「別所村紺屋増治」と墨書きされた布が裏側に縫い込んであり、地元の製作によることもはっきり読みとれます。
上田小県地方は農村舞台の密度の濃い地域の一つで、数多く常設されていたのは、地芝居の盛んだった証〔あかし〕とみることが出来ましょう。野倉の近くでは青木村や別所・保野・下之郷など歌舞伎上演にふさわしい舞台の建造が、江戸期後半の文化文政から明治にかけてなので、魅惑的〔みわく〕な娯楽〔ごらく〕の歌舞伎がムラに入ったのは十九世紀の初め頃かと推察できます。
野倉村の鎮守諏訪大明神(合併後は塩田水上神社)の境内の舞台で、喝采〔かっさい〕を浴びて演じられた地芝居も既になく、使われた書割〔かきわり〕と呼ぶ絵を描いた襖〔ふすま〕なども散逸してしまいました。近世末の舞台引幕としてほぼ完全な形で残されたということだけではなく、古い木綿地の標本として、また、当時の布染の資料としても、貴重な価値を持つものです。