赤松小三郎

幕末の洋式兵学者・議会政治の先唱者

赤松小三郎
赤松小三郎
(あかまつ こさぶろう)
1831ー1867

 幕末、諸外国から開国を迫られた日本の世情が不安定になりました。上田藩士赤松小三郎は、この難局を救うため公武合体をし、新しい政治体制を取り入れるべきだと幕府に申し立てをし、近代国家誕生に大きな影響を与えました。
 小三郎は幼名を清次郎といい、天保2(1831)年に芦田堪兵衛あしだかんべえの二男として木町で生れました。嘉永元(1848)年、18歳で江戸に出て勝海舟に数学・測量・天文・蘭学らんがくや洋式砲術などを学び、同7年には上田藩士赤松弘の養子となり、小三郎と改名しました。
 小三郎は、語学にも秀でていて、慶応2(1966)年に「英国歩兵練法」(上田市立博物館蔵)を和訳し、日本の兵制の基礎確立に貢献しました。また、京都で英式兵学塾を開いていたとき、請われて薩摩藩から講師として迎えられ、教え子に帝国海軍司令官・東郷平八郎らがいます。
 小三郎は、一般には洋式兵学者として知られていますが、慶応3年5月、全政治総裁職松平春嶽まつだいらしゅんがくに国会創設の建白書を提出しています。これは同様の趣旨で坂本竜馬が提起した「船中八策」に先立っており、小三郎の先進性を広く世に伝えました。
 しかし、慶応3年9月3日、京都から帰る途中、幕府の協力者と疑われ、待ち伏せていた薩摩藩士桐野利秋きりのとしあきらに襲われ亡くなりました。享年37歳でした。
 小三郎は京都の金戒こんかい光明寺に葬られていますが、遺髪いはつの墓は鍛冶かじ町の月窓寺げっそうじにあります。また、上田城跡公園愛の鐘前に東郷平八郎が碑文を揮毫きごうした小三郎の顕彰碑があります。

サイト「赤松小三郎 幕末の洋学者・議会政治の提唱者」に、さらに詳しい情報を掲載しています。

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