幕末、諸外国から開国を迫られた日本の世情が不安定になりました。上田藩士赤松小三郎は、この難局を救うため公武合体をし、新しい政治体制を取り入れるべきだと幕府に申し立てをし、近代国家誕生に大きな影響を与えました。
小三郎は幼名を清次郎といい、天保2(1831)年に
小三郎は、語学にも秀でていて、慶応2(1966)年に「英国歩兵練法」(上田市立博物館蔵)を和訳し、日本の兵制の基礎確立に貢献しました。また、京都で英式兵学塾を開いていたとき、請われて薩摩藩から講師として迎えられ、教え子に帝国海軍司令官・東郷平八郎らがいます。
小三郎は、一般には洋式兵学者として知られていますが、慶応3年5月、全政治総裁職
しかし、慶応3年9月3日、京都から帰る途中、幕府の協力者と疑われ、待ち伏せていた薩摩藩士
小三郎は京都の
サイト「赤松小三郎 幕末の洋学者・議会政治の提唱者」に、さらに詳しい情報を掲載しています。