飯島保作(花月)

花月文庫を後世に残した実業家

飯島保作(花月)
飯島保作(花月)
(いいじま ほさく(かげつ))
1863ー1931

 飯島保作は、文久3年(1863)に飯島家の長男として横町に生まれました。明治6年(1873)上田街学校に入学し、明治10年(1877)に上等小学校全科を卒業しました。上田街学校の教員補助の職は、天皇の御巡幸が終わった後退職し、家業(質屋)に従事しました。
 自らが作成した年賦には「家業のかたわら独学」とあります。向学心旺盛な青年で、この向学心が実業家飯島保作を生み、このころから雑誌に狂歌、川柳等々の投稿を始め、後の上田地方の庶民文学のリーダーとしての文学上の資質を開花させたのです。
 保作は、上田商工会議所会頭、第十九銀行の頭取を歴任して生涯を閉じた上田を代表する傑出けっしゅつした実業家でした。明治15年(1882)10月、上田郵便局に採用され、最初の職業の第一歩を踏み出し、9年間在職しました。この間、上田商業会議所の前身である上田商工会創立に関与して、常議員となり、さらに、同会の幹事を歴任するなど経済団体の役員に推され活躍しました。
 一方で、明治23年(1890)に第十九国立銀行取締役に選任されたほか、様々な会社の取締約に就任するなど経済界との深い関わりを持つようになりました。大正8年(1919)には頭取に就任し、昭和6年(1931)まで在任しました。この年の4月「県下財政の安定と銀行経済の安定化」のため、第六十三銀行(松代)との合併推進に奔走し、6月に合併仮契約を締結、8月には「八十二銀行」として発足することになりました。ところが、合併を目前に病魔に侵され、7月末急逝しました。享年69歳でした。
 飯島保作の数ある業績の中で、後に「花月文庫」と称される蔵書を残したことは、特筆に価することでした。保作は、生涯をかけておびただしい数の貴重な古書(特に江戸時代庶民文化関係)を収集し、昭和26年、遺族の飯島家では、8,715冊の古書を上田市に寄贈されました。上田市ではこの書籍を市立図書館の蔵書として、「花月文庫」と名付け、保管しています。「花月」は保作のペンネームだったからです。
 飯島保作は、貴重な古書を後世に残すとともに、小説や随筆のほか論評を書き、和歌、狂歌、川柳に多くの作品を残して、その類まれな文人として資質を開花させました。著作家、読書家、研究家として残した足跡は、「花月文庫」とともに永久に光彩を放つことでしょう。

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