石井鶴三

美術の広い分野で本格独自の造形性を高めた美術家

石井鶴三
石井鶴三
(いしい つるぞう)
1887ー1973

 上田で46年間、彫塑ちょうそ講習の講師を続けた石井鶴三は、東京芸術大学教授、日本芸術院会員、日本版画協会会長などを歴任しました。また、相撲通とも知られ横綱審議会委員、相撲博物館長も務めました。
 鶴三は、塑像と木彫が専門の彫刻家でしたが、挿絵さしえ画家、版画家でもあり、水彩、油彩、水墨もする画家でした。
 鶴三は明治20年、東京下谷しもやに生まれ、父も祖父も画家、養祖父は陶芸家、長兄も洋画家ていう美術一家に育ちました。しかし、明治30年、父が肝臓癌で死去し一家は支柱を失い、11歳の鶴三は千葉県船橋の薪炭を商う矢橋家に養子に出されました。このとき世話を任されていた飼い馬が、鶴三少年を慰めた無二の友だちでした。馬と仲良くなった鶴三は、馬の体の不思議な感触に心を打たれ、粘土と漆喰しっくいを竹と針金で作った骨組みにつけて馬の形を造りました。彫刻の芽生えともいうべき体験をしたのです。
 明治38年東京美術学校彫刻家へ入学。家計を助けるために漫画記者も始めました。午前は学校、午後は遅くまで漫画社という生活が8年も続き、車中街上どこでも素描に打ち込みました。関東大震災前後を境に、鶴三の目指す造形の骨組み、道筋が生まれ、活発な活動が始まります。
 小県上田教育会の招きで彫塑講習会の講師として、初めて上田へ来たのが大正13年。美術院研究所を上田へ移すという意気込みで「やる以上は専門家も素人しろうともない。本格のみだ」といい、「教えるのではなく皆さんと一緒に勉強する」姿勢で臨みました。講習会は翌年から上田彫塑研究会の主催で昭和44年まで続き、「婦人像」「信濃男坐像」「老婦袒裼たんせき」などの名作が上田で生まれたのです。
 昭和24年、東京芸術大学の教授に就任するとともに、注目される作品が次々と生まれました。70歳を過ぎたころには独自の制作の時を迎え、力を尽くして歩んできたそのすべてのものが、一体となった世界をつくりました。鶴三は昭和48年、惜しまれつつ85歳の生涯を閉じました。
 
 ※石井鶴三の作品の一部は、小県上田教育会館に展示されており、土・日・祝祭日を除く平日の午前9時から午後4時まで見学ができます。

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