小河滋次郎は、日本社会事業史上の画期的大事業とされる、方面委員制度(今の民生委員制度)を全国に先駆けて生み出した人で、文久3年(1863)に上田藩奥医師金子宗元の次男として生まれ、後に小諸藩士・小河直行の養子となり、兄は上田慈善会を創立、甥も医業に携わるなど、人を大切にする家系に生まれ育ちました。
小河博士のイメージは、「厳しい人、情け深い人」であり、十代の後半のころ、労働者保護の議論を重ねた時のことについて「僕の運命はその当時からすでに弱き者の友たれということに極まっていた」と自身が心中の思いを述べています。このことが後に、監獄制度の改良や社会事業に尽力した基盤となり原動力となったのです。
大正7年8月、米騒動が大きな要因となって、方面委員制度が創設されました。同年10月、大阪府方面委員制度が公布され、その趣意書には「我々委員は
大正14年4月2日、病のため62歳で死去しましたが、このとき病床にあった山極勝三郎(上田市出身)は「竹馬の友たる小生の驚きと痛惜の一通りならざる次第」と切々たる弔辞を寄せました。小河滋次郎を讃える碑は、上田城跡公園の赤松小三郎の碑の隣に建立されています。