諏訪群平野村(現岡谷市)で製糸業を営んでいた笠原善吉の父は、明治33年(1900)3月、事業拡張のため上田に「常田館製糸場」(120釜)を設立しました。東京で勉強中だった善吉は明治37年3月、卒業と同時に家に帰り、22歳の明治40年5月、常田館の経営管理一切を任され、520釜の工場経営者となりました。創業の翌年、明治34年には、上田で第一の釜数(196釜)を持つ工場となり、以来規模を拡大し、製糸業の経営も順調で、上田の製糸業といえば、常田館で代表するようになりました。
善吉の日ごろの仕事に対する姿勢は、従業員にも大きな力となって伝わり、操業中はほとんど工場で生活することが多く、早朝や夜の工場の見回り、交代で宿直をするなど常に細かいところにも目配りを怠りませんでした。繭の購入時期には、従業員とともに朝早くから深夜まで、仕事の打ち合わせをしたり、一日の労をねぎらう場にはいつも善吉の姿がありました。一粒の繭、一枚の紙にも心を使い物を大切にする心を教えましたが、仕事の面では厳しくても従業員を信頼して、時には意見を求めることもありました。
大正11年には、欧米の絹業視察の一員として参加し、海外へも目を向け、特に生糸相場に注意をはらい相場の上下を記録し、金利の安い金融機関を利用するなど健全な工場経営をしました。浮き沈みの多かった製糸業だけに、最新の注意を払い好景気にも浮かれることなく、利益を堅実に運用、無駄を省き不況時に備えた経営に徹し、倒産や廃業をした製糸工場が多かったにもかかわらず、その波を乗り越えられたのは日ごろの物を見る目の確かさがあったからでしょう。
大正4年、兄と協力して東京神田小川町に笠原組東京支店を設置、昭和7年に株式会社笠原組とし、東京事務所に本社を置き、8年には株式会社笠原組上田工場と社名を変更しました。太平洋戦争で中断していた製糸業の復活にいち早く取り組み、昭和21年6月には240台の
昭和28年、社用で上京中の東京本社において急病のため、68歳の生涯を閉じました。