金井正は、明治19年神川村国分(現上田市)に、金井家の三男として生まれました。県立長野中学校(現上田高等学校)に入学。次兄の影響を受け文学を志し、上級学校を目指しましたが、家庭の事情から
山本鼎がヨーロッパ留学から、大屋で開業医を していた父のもとに戻ったのは大正5年。次の年の2月に後輩の山越
農民美術運動については、鼎と連名で日本農民美術建業の趣意書を作成して、神川村の人々に働きかけました。大正8年に第1回農民美術練習所を神川小学校で開設し、経営陣の1人として参加しました。翌年には自宅の蚕室を開放して講習会を実施するとともに、農民美術品展示即売会を東京三越で開催し、出品作品はほとんど売り切れるという大成功を収めました。しかし、昭和になると不況が忍び寄り、昭和6年には約8万円の赤字となり、時勢には勝てず昭和15年には研究所は閉鎖され、正は研究所の全責任を負い最後まで面倒をみたのです。
一方で、大正10年に猪坂直一、山越脩蔵とともに創設した自由大学も順調に開設され、土田
戦時色が濃くなる中、正は時報「神川」に教育や行政についての自分の考えを発表します。情熱と全財産をもって尽くした農民美術や、民意を高め戦時下の村政に全力で取り組んだ正ですが、終戦とともにすべての公職から身を引き、その後は、自由大学の再興や戦後の新しい農業方法の研究に努めました。農村の自立を課題に、理論と実践を積み重ねてきた正ですが、上田市との合併の足音を聞きつつ、昭和30年、70歳の生涯を閉じました。