加舎白雄

俳句の改革と上田の庶民文化を高めた江戸後期の俳人

加舎白雄
加舎白雄
(かや しらお)
1738-1791

 俳人白雄は、元文3年(1738)上田藩士加舎家の二男として江戸深川に生まれました。松尾芭蕉といえば、俳句を今日のような文芸に高めた人として誰でも知っていますが、それが周知されるのは江戸後期の安永―天明(1772-88)期、白雄らの活動によってです。白雄は芭蕉風の俳句(蕉風)を正統なものとし、その復興と主情的な俳句をもって新時代の俳風を打ち立てた人です。
 「白雄」は俳句を作るときの号で、本名は吉春といいました。父と兄は上田藩士でしたが江戸詰めが長く、白雄19歳の折り、初めて上田に移住しました。父が他界した16歳ごろ俳句を知ったようですが、本格的に俳句を作ったのは、明和2年(1765)江戸日本橋の俳人烏明うめいに入門してからで、特に烏明の師鳥酔ちょうすいの感化を受け、蕉風復興に力を注ぎました。俳句は庶民文芸といわれますが、当時長野県では俳句をたしなむ人が少なく、芭蕉が県下を旅した折(1688『更科紀行』)も、これを迎える俳人はほとんどいませんでした。白雄は芭蕉の来遊した姨捨に句碑を建てることによって、芭蕉の復権とその句風を継承する俳人たちを育てたのです。白雄の指導は、俳句だけではなく和漢の古典や歴史、動・植物の知識から文字のくずし方まで、教養全般にわたり、地方の庶民文化を根底から支えるものでした。
 明和6年(1769)、姨捨に面影碑を建て翌年記念集『おもかげ集』を出版。これらの成功によって師烏明から独立を許され、明和8年春、上田において『田ごとのはる』を出版しました。本書は戸倉地方で編集、上田常田の井筒屋万七の彫刻によって出版したもので、上田地方の出版物として最も古いものの一つです。
 その後、蕉風俳諧を広めるために広く全国を巡り多くの俳人に接しているうちに俳句に対する見識も高まり、入門する人も多くなりました。それを妬んだ烏明は、安永5年(1776)白雄を破門します。破門後、江戸を離れ神奈川、群馬、三重などを巡り、新たに門人を作りますが、安永9年に江戸日本橋に春秋庵を開きました。先ず門人指導として毎月通信による月並(俳句指導)を、毎年冬に一門の作品を収める二冊の撰集『春秋稿』を刊行しました。
 ひと恋し火とぼしころを桜ちる(上田城跡公園入口句碑)は、安永元年(1772)3月、吉野山で読んだ初案を十余年推敲し、完成させた主情的な作品で、今なお高等学校の教科書に取り上げられている代表作です。

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