久米は、明治24年上田片平町(大手町)で生まれました。父由太郎は明治28年小県郡立高等小学校兼上田尋常小学校校長として勤務していましたが、明治31年、父が校長を務めていた上田尋常高等小学校上田分教場が焼失。その責めを負って父が自刃してしまったため、一家は母の実家福島県
この時代に、安積中学校の教頭と国語教師に指導を受け、俳人としての才能を見込まれ、将来を嘱望されるまでになりました。中学校在学中に「笹鳴吟社」を結成、また、学校教員の集まりである「群峰社」にも参加。桑野村を訪れた正岡子規や
大正4年、久米は芥川、菊池らと夏目漱石の門下生となり、漱石主宰の木曜会に参加。翌大正5年には、芥川、菊池らと『新思潮』を創刊し、久米は上田を舞台にした「父の死」を発表しました。
「父の死」は、上田で自刃した父と、その周辺の事情をモデルにして描いた小説です。久米は父の死への強烈な記憶と責めを負って自刃という武士道教育からでた虚栄のために、父は死なずともいいものを死んだのだという何か釈然としない気分に、長い間拘泥しており、そのことを素材として「父の死」を書きました。この作品について漱石は「事実を聞いていたから、猶のこと興味があり、面白かった」と評しています。
久米の描く小説は、自身の体験に基づく題材が多く、彼の主張する「心境小説」、自身の生活に裏付けされた小説こそ「真の芸術の現実性がある」という信念を貫き通しています。
大正8年7月、久米は思いがけず別所温泉を訪れることになり、幼い頃の記憶から当時の家主河合氏に電話をすると、河合氏は地元にいる父の友人たちに声をかけ、歓迎会を開いてくれました。河合氏から父の死の真相を聞き、久米は「父の死」発表から一歩踏み込んだ思いを「不肖の子」「吾が少年時代」に記述しています。この旅で久米は、長い間拘泥していた幼い日の記憶から立ち上がり、上田を故郷として再認識し、久米が作品として描いた上田の街は、今もなお幻影の町として生きています。