小菅武夫

人間愛・教育愛に殉じた教育者

小菅武夫
小菅武夫
(こすげ たけお)
1907ー1929

 小菅は、明治40年(1709)に上田市木町に生まれました。大正9年、尋常じんじょう科を優良の成績で、しかも6か年皆勤で卒業し、受け持ちの先生からは東京の中学校への入学を勧められましたが、家業の都合で高等科へ進級しました。大正11年高等科を卒業しましたが、ここでも皆勤で成績優良のため、時の校長と受け持ちの訓導に進学を勧められ、小諸商業学校第三学年に編入しました。
 大正14年、小諸商業学校を成績優秀・精勤で卒業し、校長が東京第一銀行に推薦をしてくれ、本店の書記補として就職しました。大正15年には第一銀行室町支店の書記となり、月俸も上がり、妹が上田高等女学校(現上田染谷丘高等学校)に合格し、学資金として毎月5円を5年間送るという誓約書を送ったといいます。昭和3年1月に病気になり銀行を退いて上田に帰り療養に努めました。その後、昭和4年に上田尋常高等小学校の代用教員として再出発をし、商業科を担当して日々反省をしながら熱心に指導に取組みました。
 小菅は小さい時からキリスト教に興味を持ち、その影響を受け、様々な体験や勉強を通して「人間とは何か」「人生いかに行くべきか」を真剣に考え続けました。そして、最後に到達したのが「絶対的愛」の自覚でした。それは有名な「本願」としてまとめられ、昭和4年に上田青年誌に寄稿しています。殉職じゅんしょくした19日前のことです。
 4月24日、須川すがわ鴻の巣こうのす方面へ春の遠足に行きましたが、解散後雨模様の天候となり、千曲川堤防上を歩いていた児童たちの一部が、鉄橋の上方50mの仮の橋を渡り始め、近くにいた小菅は驚いて「狭い橋は危ないぞ」と言って止めようとしましたが、まもなく1人の児童が板と板の継ぎ目から足を踏み外して川の中に落ちてしまいました。児童は水面をたたきながら流され、小菅は「今行くから待っておれ」と口走りながら上着を脱いで川の中に飛び込み、ようやく児童に追いつきましたが、児童が夢中で小菅にしがみついたので、二人は流れに押し流されていきました。後から泳ぎ着いた恩田訓導に「頼む」と叫びながら小菅は川の中に沈んでいきました。雨降りの暗い夜、警察や消防など大勢で一晩中探しましたが小菅は見つからず、翌日、学校職員14名が川の中に入りようやく探しあてました。小菅は極めて平安な面持おももちであったといいます。
 昭和5年11月、遭難現場に「殉職記念碑」が建てられ、正面に「本願」の第一節が刻まれており、小菅訓導の精神は今も生き続けています。

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