河内山寅

明治・大正期に活躍した女性教師

河内山寅
河内山寅
(こうちやま とら)
1855ー1930

 寅は、上田藩士河内山長善の長女として安政2年(1855)上田鷹匠町たかじょうまちに生まれました。寅の父は藩校の句読師くとうしなどを務めていました。母方の叔父は学者で、このような環境に育った寅は、小さいころから本を読むことが好きでした。
 母は寅に『女大学』『庭訓往来』などを与え、女子の心得、妻や嫁としてあるべき姿を教えました。当時の女子の学習書としての『女大学』などでは満足できなかった寅は、父から密かに『三字経』『孝経』『小学』などを学びました。女子が男子と同じように学ぶことは難しい時代でしたが、それでも父は寅の生涯を考え、熱意を持って教育に当たったのです。
 明治6年(1873)成明小学校が開設されると、父は主席教員として採用され、同時に寅も同校に勤務することになりました。明治8年、父が病で没した後、上田変則中学校に妹とともに入学し、苦学の末、明治10年卒業しました。長野県小学師範部第一期試験にも合格し、松平学校に雇教員として勤務することになりました。時に寅22歳。以後42年間にわたる教員生活の第一歩が始まったのです。
 寅は勤務のかたわら授業を怠らず、師範学校の講習に出席したり、一定の師を選び、教育学、理科、和文等を究め、明治25年(1892)学力認定により、尋常小学校本科正教員の免許状を交付されました。明治37年には、女子教育のために専心努力した結果、長野県より普通教育奨励として金牌を授与され、同39年には文部省より教育功績状と金150円が授与され、また、上田町からは銀時計が贈られ、女子の身で長年にわたり初等教育に力を尽くした偉業が認められたのです。
 明治19年、児童をよくするには、児童との家庭と連絡をつけなければならないと思った寅は、婦人会を作ることを考え、会の創立に力を尽くしました。また、母親の教養を高める婦人会の活動を図る一方で、貧困のため無教育のまま子守として他家に雇われている女子たちの教育、いわゆる子守の教育に目を注ぎました。明治26年(1983)子守学校が上田小学校に開設されると、当時の社会から非常に歓迎され、寅は率先して子守教育に当たりました。
 大正7年(1918)、63歳で教職を退いた寅は、娘はつの嫁ぎ先に身を寄せ、平穏な日々を過ごし、昭和5年、75歳の生涯を閉じました。

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