小島大治郎の生家は、代々
大正初期の川西地区は、千曲川を隔てていたので電気動力の引き込みがなく、事業を興せないでいました。地域の有力者たちが奔走して働きかけますが、どうしても実現しません。そこで、大治郎の助力を得て、ようやく大正7年(1918)にこの動力の引き込みに成功しました。
これに力を得て、次に電車鉄道開設の運動を起こし、この時もすでに丸子鉄道の取締役であった大治郎にも代表として参加してもらい、大正8年に資本金60万円の上田温泉電軌株式会社を発足させました。大正9年には上田温泉電軌株式会社(通称温電と呼ばれていた)と改称し、自らは社長となり、鉄道建設へ情熱を注ぎました。まず大正10年6月、三好町から青木、別所温泉への運行が開始され、今の上田駅から乗降ができるようになったのは、千曲川鉄橋の架設が大正13年に完成してからです。この建設にあたって大治郎は、建設資金、レールや車両などの調達に大変苦労しましたが、それを物心両面から支えたのが青木村出身の五島慶太でした。
一方、丸子鉄道は大屋までだったのを上田につなげるため西丸子線の計画を立て、大正15年に運転を開始。さらに、北東線は大正12年末より地元の人々の運動が起こり、従来の軌道法ではなく地方鉄道法によって進めることを計画。不況の中、株式の募集や用地の買収、路線決定など幾多の苦労を重ね、ようやく昭和2年に上田-伊勢山間が開通し、翌3年1月に
大治郎は常々「鉄道事業というものは、山に木を植えるようなものだ。一朝にでき上がったり、儲けたがる考えはだめだ。20年か30年後はじめて効果が現れてくる」といって、私財を投じて地方交通機関の育成に努めました。
また、私設の小島育英資金を設けて、苦学の学生を何人も支え、人材の育成に努めました。これはその後、上田市の育英資金にその精神が受け継がれ今日に至っています。