柴崎高陽

郷土愛と人間愛に生きた山岳写真家

柴崎高陽
柴崎高陽
(しばざき こうよう)
1902ー1990

 柴崎高陽(本名英夫)は明治35年、小県郡殿城村下郷(現上田市)に生まれ、豊かな家庭で育てられました。小県蚕業学校(現上田東高校)へ入学しましたが、翌年健康を害して休学します。この頃、パールⅡ型で山野を撮り歩き、写真への情熱は一気に上昇して健康を取り戻し、プロの写真家を志します。上野の美術学校への進学を父に申し出ると、蚕種屋たねやの息子が何事だと叱られましたが、自宅にプロ並みの暗室を造り、それから地道な独学の長い道が始まりました。
 大正の末ごろになると、日本のアマチュアカメラ熱が盛んになりますが、折りよく上田市出身の高桑勝雄を主筆に『カメラ』が発刊され、高陽に大きな希望と力を与え、以来高陽は高桑を師と仰ぎ尊敬します。
 高陽25歳のとき、下郷の自宅で写真館を開業しますが、山村での営業はままなりませんでした。でも志を固めた高陽はくじけませんでした。昭和3年、上田温泉電軌(上田交通)が真田まで開通する頃から、高陽は雪の菅平にのめりこみます。高陽は山の親友でスキーの名手馬場忠三郎と組んで最初の著作『スキー写真術』を世に出し、たちまち増刷の売れ行きとなりました。
 高陽が芦峅寺を口にする時、目は輝き、得意満面で少年のようでした。芦峅寺は、立山連峰の登山基地で名ガイドがいて、ここをベースに冬山の厳しさに耐え、峻険しゅんけんで雄大な写真を撮り続け、本格的に「山と雪の写真」の個展をやった最初の人が高陽でした。
 昭和26年、二十五菩薩来迎会という民俗行事に出会い、祭りに心が惹かれます。子どもに楽しい思い出を残してくれた祭りがすたれてきたことに心を痛めていた高陽は、写真の持つ記録性を生かし、信州のよい習俗行事を残そうと県下の民俗行事をくまなく撮影し続けました。
 「美しく豊かな信州の自然と郷土に伝わる祭りを、好きなカメラで撮れるなんてこんな幸せはない」これが口癖でした。人に温かく、自分の制作活動には厳しいものがありました。愛用のカメラを枕元に置き、平成2年、郷土が誇る偉大な柴崎高陽は88歳でこの世を去りました。

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