陸上競技選手として大活躍した真保正子は、大正2年上田市新田に生まれ、立派な体格は父親から、やさしい心根の中にどこまでも頑張り通す根性は母親譲りのものでした。
高等小学校時代からスポーツは得意で、ドッジボールではものすごく強いボールを投げるので、友達は逃げ回ったということでした。
上田高等女学校(現上田染谷丘高校)に入学後は、陸上競技の練習に明け暮れ、県下の陸上競技大会では、走、跳、投どれもよい成績でした。
昭和5年、姉を追って、日本女子体育専門学校(現日本女子体育大学)へ入学。競技会では、憧れの人見絹枝選手(※)の超人的跳躍に度肝を抜かれて、足がすくんだとのこと。第9回極東選手権大会に出場した時、小学校の恩師寺島先生から「短距離や跳躍よりも投てき専門に変わったほうがいい」と助言され、槍投げに専念することを決意しました。昭和7年、第10回ロスアンゼルス五輪大会に女子槍投げで出場し゜、一投一投日本からのお守りに祈り続け、身を削る思いで投げました。その結果、日本記録を更新し、39m07㎝の記録でみごと四位に入賞しました。
同年9月14日午後4時、上田駅着の列車で晴れの郷土入りをしました。駅では市長はじめ母校の校長、生徒、市民ら大群衆が迎え、正子が改札口から現れると、待ち構えた市民からは大歓声が上がりました。
その後は、スポーツの指導者として主として大阪を舞台に活躍。昭和39年の東京五輪では役員を、昭和53年のやまびこ国体では、槍投げ入賞者への賞状授与者などを努めました。
教員生活50年、自己の体験から「感動のない教育は、真の教育ではない。教師は相手の可能性を引き出し、育て上げることが大切だ」と珠玉のことばを残しています。
※岡山県出身の陸上競技選手、ジャーナリスト。日本人初のオリンピックメダリスト。
100m、200m、走り幅跳びの元世界記録保持者(1907~1931)