中村實

農民美術研究所第一期生で木彫芸術に新しい道を拓いた人

中村實
中村實
(なかむら みのる)
1894ー1977

 中村實は、明治27年、神川村黒坪(現上田市)の農家の7人兄弟の長男として生まれました。文学的才能に恵まれていた實は、上田中学校(現上田高校)に入学しますが校風になじめず退学。その後、徳富蘆花、有島武郎の作品に感化され、作家への夢を持ち続けつつ養蚕業などを手伝って青年期を送りました。
 大正8年、フランス留学から帰国した洋画家山本鼎の提唱する農民美術運動に、25歳の實は、山越茂重郎、有賀潔、矢島勇吉等と応募します。教室は最初神川小学校で、翌年は黒坪の金井正の蚕室で、翌々年は大屋駅の東北の高台に建つ蒼い屋根の工房で、山本鼎や倉田白羊等から農民美術としての木彫を学びました。
 大正9年には實たちの手によって木片人形や白樺巻き小物入れ等、立派な作品が出来上がり、神川小学校を会場にした展覧会で発表され、やがて、東京三越、大阪三越などでも展示即売として発表され、ほとんどの作品が売れ切れました。
 大正12年4月、神川村大屋の高台に農民美術研究所が完成して、農民美術の運動は全国的な広がりを見せました。一方、農民美術の仕事を進めながら、本格的な木彫芸術を目指して「こども」(昭和4年)や「田植えの娘」(昭和7年)と題する木彫立体作品を日本芸術院展に弟直人なおんどとともに出品し入選し、石井鶴三や木村五郎の目にとまり、厳しい指摘の中にも好意的な指導を受けました。
 太平洋戦争中は、農民美術の運動に対する県や国からの補助が打ち切られ、農民美術運動全体が苦境に陥ることになりました。終戦後の昭和21年、農民美術運動等を提唱した山本鼎が病死をしましたが、師鼎の墓前に誓うかのように農民美術復興への努力を開始しました。
 昭和33年5月に念願の山本鼎記念館設立の決意をし、得意の文才を生かして記念館建設の趣意書を書き上げ、6月に神川村の有力者に呼びかけ、発起人会を発足しました。翌34年には上田市長も賛助会員として加わり、正式な記念館趣意書が発表され、昭和37年7月、山本鼎記念館は開館を迎えました。實は所蔵の山本鼎の作品、「トマト」「郷愁」「浅間山」や版画「モスコーの夏」「夕影」などを寄贈し、初代館長に迎えられました。
 現在活躍する20余名の農民美術作家の育成とその活動にも多大な影響力を残して、昭和52年農民美術一筋の83歳の生涯を閉じました。

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