成澤玲川

写真ジャーナリストの先達

成澤玲川
成澤玲川
(なるさわ れいせん)
1877ー1962

 新聞と放送を舞台に縦横に活躍したジャーナリストの成澤玲川は、明治10年上田原町に生まれ、幼名を金弥といいました。明治25年、高等小学校を卒業すると同時に東京の袋物問屋に奉公に出ましたが、まもなく病気になり上田に帰りました。当時、書物を通して知り合った内村鑑三うちむらかんぞうを上田に招いて講演会を開くなどしたり、書店も鑑三の勧めで開きましたが、理想と現実の間にはかなりの隔たりがあり、書店を閉じて上京し、渡米の準備をします。
 アメリカに渡ったのは、明治39年、玲川28歳のとき。アメリカ西海岸のオレゴン州ポートランドに落ち着き、そこで『央州おうしゅう日報』という邦字ほうじ新聞を発行しました。日本を遠く離れてアメリカで暮らしている人たちにとって、日本の文字で書かれた写真の多い新聞は魅力でした。このころ、玲川は写真技術も習得し、新聞の発行だけでなく「ヤマトグラフ映画社」を作り、アメリカで活躍している日本人の姿を写す仕事も手がけました。大正2年日本に帰りますが、12巻にまとめたフィルムを持ち帰り、各地で公開し喝采を受けます。その後、朝日新聞社東京本社に入社し、写真ジャーナリストとしての第一歩を踏み出しました。
 大正12年、わが国初の画期的な写真新聞『日刊アサヒグラフ』を創刊し、初代の技術部長となり、新境地を開拓しました。しかし、関東大震災のためわずかで休刊になりましたが、玲川は再刊の希望を捨てず、大震災から二ヵ月半後、熱意が実り『週間アサヒグラフ』として再出発し、初代編集長となりました。その後、次々にカメラに関する雑誌や写真集など、数々の企画を実行し大活躍を続けました。その後は、活躍の場を放送界に移し、日本放送協会(NHK)報道部長として相変わらずの企画力と実行力を発揮しました。
 太平洋戦争が激しくなったころ、郷里上田へ疎開し、この間、上田写真クラブへの指導や地元新聞の創刊に関わるなど、ジャーナリストとしての経験を生かしました。その後、再び上京し、社団法人「日本写真協会」の創立に参画し専務理事に推され、10年間、老齢もいとわず協会発展のために献身的な努力を続け、玲川は日本写真協会から功労者として表彰されました。玲川が提案した「日本写真百年展」が昭和37年に盛大に開催されましたが、玲川は病気のために自分が企画したこの展覧会を見ることもなく、同年、84歳でこの世を去りました。

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