新田潤(本名・半田祐一)は原町の通称電信小路に、上田郵便局員・半田仲太郎の次男として生まれました。
大正11年、新田は上田中学校(現上田高等学校)を卒業すると旧制浦和高等学校を経て東京大学英文科へ進みました。在学中に『文芸交錯』を創刊し、文学活動を始めます。文学仲間の高見順(福井県出身・小説家・詩人)とは特に親しく、ペンネームも互いにジュンとつけたというエピソードは有名です。昭和5年、大学を卒業しますが不況で就職口がなく、翌年ようやく京橋図書館の臨時職員に採用され、貧しい生活に耐えながら小説家を夢見て執筆に励みました。
文壇の注目を集めたのは昭和8年『日暦』に発表した小説「煙管」でした。上田近郊に住む鍛冶屋と馬車屋の話で、大正から昭和に移り変わる頃の上田の町の様子などが鮮やかに描かれています。この小説の成功により潤は作家の道を歩むことを決め、翌年には「片意地な街」(『文学界』一月号)を発表します。この小説も上田の人びとをモデルにしたもので、ユーモアと風刺を交えた地方色豊かな小説として高く評価され、新進作家としての地位を確立しました。
その後、上田を舞台にした小説を『日暦』『文学界』『文芸春秋』等へ次々と発表しました。しかし、原稿料だけでは生活ができず、相変わらず京橋図書館に勤めながらこつこつと小説を書く毎日で、図書館勤めを辞めて文筆活動に入ったのは昭和12年5月、33歳の時でした。
新田潤の文学について高見順は「私小説的伝統の否定された文学的局面から進み出でたところの新人である。(中略)「煙管」「片意地な街」「映画館のある街」等の作品は、西洋的文学教養を背後にもった客観的文学手法のものであった」とその特色を指摘しています。
昭和42年5月、母校の上田高等学校同窓会館で「高見順と昭和文学」の講演を行い、翌年には「わが青春の仲間たち」を出すなど元気でしたが、数年後に結核を発病し、昭和53年5月、惜しくも病が
没後、新田の蔵書820冊が上田高等学校図書館に寄贈され、「新田文庫」として生徒や教職員の利用に供されています。