第12代滝澤助右衛門は、明治17年、原町の旧問屋に生まれました。幼少のころから将来を嘱望され上田中学校(現上田高校)で勉強していましたが、耳を患い中途退学して上京。耳の治療のかたわら大成中学校に通学して卒業しましたが、耳はほとんど聞こえない状態でした。その後、高等商業(現一橋大学)の入学試験では、英会話をのぞいて全科目を合格しましたが、最後の英会話で聞き取りができず、合格の夢が消えました。
帰郷後、父親の元で企業経営と財務について
助右衛門は幼いころから情に厚く、人を大事にしており、また、先祖を敬い、祭りを欠かしたことがありませんでした。400年程前に、2代目助右衛門は、本原村下原(現上田市)から上田へ移居した人で、そのため下原に墓地がありますが、いつも手入れが行き届いていました。また、助右衛門は地元の人たちの面倒を見ることも行い、大正13年温電(上田温泉電軌㈱)が北東線設置に当たり、助右衛門は田畑が少なく収入の少ない下原区に割り当てられた全株を購入し、株券を下原区へ寄附したのです。
滝澤家は、真田氏以来の旧家で代々原町の問屋を務め、寛文3年(1663)から明治2年までの206年間にわたる原町『問屋日記』が157冊あり、滝澤家はこの日記や文書等をきちんと整理し、長年にわたって保存し、『上田市誌』等のために利用され、現在、原町『問屋日記』は上田市に寄託されて上田市立博物館に保管されています。
一方、出版物にも気を配り、『大日本史料』『大日本古文書』など高価で入手できない人のために上田中学校(現上田高校)校友会文庫に寄附しました。そして、昭和7年、幅広く市民たちが閲覧できるよう、所管を上田市立図書館に移すことになりました。今、明治34年初版以後の全巻を入手することは全く不可能で、貴重な資料として研究者や市民に広く利用されています。