花岡は、明治25年
家業の見通しがつくようになったころ、みよしは密かに持っていた「勉強がしたい」の大きな夢を捨てきれず、挑戦するだけと日本女子大学を受験しました。やがて嬉しい合格通知が届きましたが母に相談もせずに入学はしませんでした。秘密の夢をかなえて一つの節を越えたとき、もっと店を大きくしたいの思いは強くなり、昭和14年には40名の店員を持つ花岡商店の基礎を築いたのです。
太平洋戦争の終戦を期に、女性の積年の願いであった婦人参政権が認められ、昭和21年の総選挙は女性の初参加で行われ、国会の女性議員は39名という驚異的な結果となりました。女性の政治への進出は地方にも波及し、「女性議員を出そう」の機運は上田でも高まっていきました。市議会議員候補者に何人か上がりましたが、最後はともに婦人団体活動でリーダーを長く経験した花岡と金子ふじが候補者として選ばれました。「私たちの代表を市制に」の志に燃え、初めての選挙が始まりました。激しい戦いの中で花岡は、当選しました。共に戦った女性たちはこの幾日かの経験は、確かな手応えと難しさを感じとりました。昭和26年、二期目の選挙でも当選し、女性の議席を守りました。議会では文教、民生の常任委員や委員長を務め、女性の視点で提言や活動を続けました。
昭和30年、花岡らは市長に働きかけ、元警察署庁舎の一部を婦人団体に貸与してもらい、「婦人会館」として自主管理が見とめられました。婦人会館の運営管理委員会がもたれ、花岡を委員長に、婦人週間が始まった日に開館式を行いました。
社会の急激な変化の中で、女性が認められ活躍していくことは、個人の努力はもちろん、偏見をなくしていこうとする社会全体の向上も大切であり、花岡は古い時代と新しい時代の狭間を超えて先達を務め続け、強くしなやかな人生を送った人でした。