馬場忠三郎は、明治36年上塩尻に父忠作、母たつの長男として誕生しました。忠三郎とスキーの出会いは、大正11年、18歳のときオーストリア式の一本杖(いっぽんづえ)スキーを習ってからでした。以来、忠三郎は雪山の魅力と純白な自然を舞台とするスキーのとりこになってしまいました。大正12年、明治大学在学中に山岳部とスキー部を創設し、積雪した山岳地での合宿訓練を行い、スキー技術習得に余念がありませんでした。
大学卒業後は郷里上田に帰り、昭和3年、山好きの仲間とともに「上田山岳会」を創立し、上田温電(現上田電鉄)常務の柳沢健太郎氏とともに菅平開発に乗り出します。これが彼の一生の方向を決定づけることになったのです。菅平の四季のよさを世の人に知らせ、組織の力でスキーツアーコースの開発、紹介などを行いました。これが県下屈指の古い歴史と伝統を誇る「上田スキー倶楽部(くらぶ)」へと育つのです。
昭和5年に来日した、オーストリアのスキー指導者、ハンネス・シュナイダーの日本初のシュプールは菅平で描かれました。そのとき、忠三郎は根子岳滑降の案内役を務めました。斜面を豪快に滑走するシュナイダーの華麗なスキーテクニックに、根子岳の斜面に参集した人々から感嘆の声があがり、日本のスキー界に大きな波紋を投じた出来事となったのです。
昭和39年には札幌五輪冬季大会誘致運動の一員として、第9回冬季五輪インスブルック大会を視察し、ヨーロッパのスキー事情も見聞してきました。こうした努力は、やがて日本で冬季大会を開催するための基礎として生かされ、昭和47年、札幌オリンピック開催が実現したことは、冬季五輪選手強化者だった忠三郎にとって何にも勝る喜びでした。
昭和51年、スイスのダボスと旧真田町の姉妹提携の橋渡しのため渡欧、最後まで菅平とスキーの発展に力を尽くしたのです。