藤澤直枝

「上田市史」を書いた地方史家・教育者

藤澤直枝
藤澤直枝
(ふじさわ なおえ)
1870-1944

 明治維新は、社会を根底から急激に変化させました。大正時代になると社会の変化を書き残しておく必要を感じた人が多く、方々で郡誌が書かれました。昭和の初め、上田市の歴史を残しておきたいとの当時の市長の考えで、藤澤に白羽の矢が立てられました。『上田市史』編さんの委嘱を受けたのは、昭和5年1月のことで、藤澤は当時上田中学校(現上田高校)の歴史の教師をしており、60歳の直前にこの大仕事を引き受けたのです。
 藤澤は明治24年に長野県尋常師範学校を卒業。伊那と長野で小学校と中学校の教師を8年間勤め、明治32年から昭和7年まで、ずっと上田中学校の教師を続けました。大正13年には『日本歴史精要』を著わしています。また、大正10年県から史跡名勝天然記念物調査委員を委嘱され、信濃国分寺や上田城をはじめ、城跡、居館跡、牧、古墳など19件の報告書を書いています。このことから国史という面では日本中の中学校の歴史科教師の先達となる歴史理論をもち、もう一方では綿密な郷土史研究を深めた当時稀な歴史家でした。
 『上田市史』は、昭和5年から調査を始め、昭和15年の1月に刊行していますので、10年がかりの仕事でした。このころはまだ、県内のどこにも「市史」を編さんしたところはありませんでしたし郡誌を編さんしたほかの郡と比べてみて、先ず目をみはるのは記述の細かさと的確な表現です。県内の各郡誌はその歴史に250ページから300ページしか費やしていないのに対し、『上田市史』はなんと212ページがあてられ、その上に310ページを社寺や古墳、人物について書いています。当時の文章とかれば、難しい言葉が少なくてわかりやすく、驚くことに頭注(上田市史の表現は鼇頭ごうとう標記)を随所に入れて調べやすくしています。当時このような優れた地方書は、日本中どこを探しても見つからなかったに違いありません。
 市史編さんには藤澤のほか数人の編さんスタッフがいましたが、その2400ページの内130ページが他の委員で、2270ページは藤澤の執筆です。どうしてこのような大きな仕事を成し遂げられたのか不思議にさえ感じます。「頼むべきは唯自己の力好古」という藤澤の自筆の言葉が書斎の柱にかけられていました。「好古」の二字は藤澤が好んで使った号でしょうか。「古いことが好き」であったに相違ありません。歴史を学ぶことが大好きで、自分の努力でやり抜こうとする、それが藤澤の願いでもありました。

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