藤本善右衛門(昌信・保右・縄葛)

上田地方を蚕種製造の全国的な中心地に発展させた功労者

藤本善右衛門
藤本善右衛門
(ふじもと ぜんえもん)

 上塩尻村(現上田市)の佐藤一族の総本家は、江戸時代前期の中ごろから、代々蚕種の製造・販売業を営んでおり、「藤本」を屋号としていました。本来の姓は佐藤ですが、「藤本」を名字と同様に使っていました。当主は代々善右衛門を襲名していたため、その事績が親子で混同されている点がみられます。そのため、ここでは江戸時代後期から明治にかけて蚕種業の業績を積み重ねた三代にわたる善右衛門を取り上げます。
 ○善右衛門昌信まさのぶ
 昌信(1722-1773)は、文化5年(1808)、上塩尻村の有志と図って、上州から繰糸くりいとの職人を招き、村内の婦女子に先進地の製糸技術を習得させました。昌信らは続いて多くの糸挽き師を招き、村々に派遣し、生糸生産の拡張を図りました。上田紬や上田縞の原料糸生産が中心で、余分の繭は上州の商人に売り渡していましたが、このような繰糸技術の導入により、良質の生糸が生産されるようになり、作られた糸は「信濃細糸」とも呼ばれました。養蚕がより盛んになると、蚕種業者としの販路も拡張することになり、天保年間(1820年代)以降、上塩尻を中心とする上田地方が、全国一の蚕種製造地となる基礎を作りました。
 ○善右衛門保右やすすけ
 保右(1793-1865)は、昌信の子です。保右は文政10年(1827)に「青白」の一種の「黄金生」という新しい蚕種を育成しました。蚕の一種である「青白」は、その繭がやや青色をおびた黄色い品種で、良質の糸がとれ、虫の質が強く低温に耐える性質でした。そのため、天保の飢饉(1830年代)前後からの冷涼な気候に適応するものとして、以後大変流行しました。これは保右の育成した新品種「黄金生」だといわれています。また、保右は『蚕かいこがいの学び』いとう養蚕技術書を著わしています。
 ○善右衛門縄葛つなね
 縄葛(1815-1890)は、父保右の隠居の後をうけて藤本家を継ぎます。先祖代々の蚕種製造販売業を営む中で、弘化2年(845)、新品種「掛合かけあい」を育成しました。これは幕末期から明治初年の蚕種輸出の大変盛んだった時期に大流行した品種でした。この「掛合かけあい」は、夏蚕の雌蛾に春蚕の雄蛾を交配して改良したものです。縄葛は、国学や歌学、神道にも造詣が深く、その収集した書籍(ほとんど和本類)6千冊は、上田市立図書館に寄贈されています。『続錦しょくきん雑誌』89冊は、ほとんど縄葛の自筆で、隠居した明治10年前後より、23年に76歳で亡くなるまでの間にしるしたものです。

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