千代子は、明治40年に橋詰家の三女として生まれました。当時女子には教育は不要という風潮の中で、千代子の向学心は強く、家事の手伝いを絶対の条件で上田高等女学校(現上田染谷丘高校)に進学。大正13年に卒業し、その年の9月、尋常高等小学校正教員の検定試験に合格し、翌4月から神科尋常高等小学校に勤務。3年間の教員生活は後の千代子の生き方に大きな影響を与えました。
退職後は地域の女子青年団のリーダーとして活動。幹部研修会で先輩の深町広子、児玉勝子との出会いがあり、次第に社会とのかかわりに目覚めます。千代子のリーダーとしての資質は様々なところで発揮され、女子もこれからは職業を持ち、いかなる時も男子と対等に活躍すべきであり、女性の自立と護身への意識の大切さを説いたといいます。すでにこの頃信州夏季婦人大学や再興上田自由大学(昭和4年)へ深町とともに参加し、女性の人権や正しくものを見極めることの大切さを身につけていきました。
昭和9年、飯山出身の丸山三治郎と結婚し、同時に海野町に丸山商店を創業しました。育児に家事に店にと追われる日常生活が始まり、生活の中で経験を通して問題提起をしなければと気づき、まず子育てを考える「母の会」を地域に作りました。昭和10年代に子育てを社会的に意識したことは、後の活動の布石ともなり、その頃から商店経営にも積極的に携わります。
戦後、新しい憲法に人権の尊重と男女の平等が明記されたことは、千代子の中で培ってきた生き方の方向が示され、新たな自信となりました。経済復興の
「国際婦人年」の影響は長野県にも波及し、婦人たち有志で昭和53年「長野婦人問題研究会」を設立し初代会長に選出され、創立総会で「婦人には婦人の数だけ悩みがある。正しい目で見極め粘り強く取り組まねば…」と
力ある挨拶は見事でした。千代子70歳の夏でした。