三吉米熊

近代日本の養蚕教育の先駆者・農業博士

三吉米熊
三吉米熊
(みよし よねくま)
1860ー1927

 三吉米熊は、万延元年(1860)年長州長府藩士三吉慎蔵の長男として長門国(現在の山口県)豊浦郡長府村に生まれました。
 明治11年、内務省勧農局の駒場農学校(現:東大農学部)に入学し、農学全般を習得して明治13年6月に農学本科を卒業。引続き農芸化学科本科で無機・有機化学並びに定量分析等を習得して、明治14年に21歳で卒業しました。
 その年の11月に長野県に就職し、勧業課農務係を命じられ、水質分析等の化学関係部門を担当しました。しかし、「蚕糸王国長野県」の農務係ですから、蚕糸業に関する業務は避けて通るわけにいかず、上伊那の農談会では、学んだことのない養蚕業の質問に返答できず、三時間も立ち往生したということです。
 この体験から奮起し、自ら西ケ原蚕病試験場に行って研修するなど、積極的に技術・知識を習得し、その後、本格的に蚕糸業の指導にあたるようになり、県下各地の伝習所・講習所で講師を務めました。また、明治22年から24年まで2年間にわたり、フランスなどで視察・研修を行いました。
 当時、蚕業教育の必要性を感じていた小県郡長中島精一は蚕業学校設立を提唱していましたが、明治25年3月の小県郡会で設立案が可決され、小県郡立蚕業学校(現・長野県上田東高等学校)が明治25年5月に開校しました。
 外遊から帰国したばかりの三吉は、この蚕業学校に迎えられ、初代校長に就任しました。明治34年県立移管後も校長を続け、昭和2年68歳で亡くなるまで同校の教育に携わりました。その間、上田蚕糸専門学校(現:信州大学繊維学部)の創立委員、同校教授(明治44年~)を併任、大正8年には農学博士の学位を、大正14年には蚕糸教育の功績によって勲三等瑞宝章が授与されました。

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