山極勝三郎

世界で初めて人工癌発生に成功した医学博士

山極勝三郎
山極勝三郎
(やまぎわ かつさぶろう)
1863ー1930

 世界で初めて人工癌を作り、癌研究の世界的先駆者となった勝三郎は、江戸時代末期、上田藩の山本政策の三男として生まれました。明治12年に上京し、上田藩出身ですでに東京で開業していた医者山極吉哉の養子となり、ドイツ語を学びつつ医師を目指しました。
 明治13年に17歳で東京帝大医学部予科に入学、その後、本科に入学し25歳で卒業しました。その間、学業は優秀で特待生にも選ばれ、勉学に励む勝三郎の胸にはいつも大きな夢と希望があったのです。
 明治24年、28歳で医学部助教授の時ドイツに留学し、帰国後の明治28年には東京帝大医学部教授に就任。専門は病理解剖学で、特に癌研究では日本の第一人者でした。明治32年には肺結核を患いましたが、長い闘病生活の中でも医学研究を続け、42歳の時「胃癌発生論」を出版しました。入退院や家庭療養を繰り返す中で大正12年の50歳の時、研究熱心な市川厚一助手とともに、癌発生の予備実験研究に着手しました。当時、癌の発生原因は不明であり、主たる説に「刺激説」「素因説」などがありましたが、勝三郎は煙突掃除夫に皮膚癌が多いことに着目して刺激説を採り、実験を開始しました。その実験はひたすらウサギの耳にコールタールを塗布し続けるという地道なもので、すでに多くの学者が失敗していました。しかし、勝三郎は助手の市川厚一と共に、実に3年以上に渡って反復実験を行い、大正4年5月、ついに兎耳に癌の細胞を発生させることに成功しました。
 「癌出来つ意気昂然と二歩三歩」これはそのときの感激の句作であるといわれています。
 世界初の人工癌発生のこの偉業は、ノーベル賞候補になりましたが、当時の日本の国際的な地位などの事情で、選考もれになってしまいました。現在の人工癌の発生、それによる癌の研究は勝三郎の業績に拠ると言われています。
 山極博士の墓は、東京の谷中の共同墓地にありますが、その偉業をたたえる碑と胸像は上田城跡公園に、胸像は上田市立第三中学校にも建てられています。

サイト「山極先生ってどんな人?~山極勝三郎博士の生涯と実績~」に、さらに詳しい情報を掲載しています。

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