真夫は、明治15年武石村上武石(現上田市)で生まれ、昭和12年9月に没しました。享年55歳でありました。
小山家は近世庄屋をなした家であり、父真太郎は初版武石村誌の著わしたものである。父が相当学問をされた人であり、特に歴史に熱心であり、真夫もこれに強く影響をうけており、藤沢直枝に師事するようになった時、大きな影響を受け、一生を支配することになったと思われます。
明治35年、真夫は上田中学校(現上田高校)を卒業し、東京専門学校に入りましたが10月には退学しました。何を学ぼうとしたのか、どうして退学したのかは明らかではありませんが、これも歴史家となるために影響があったと思われます。明治36年に中塩田小学校に代用教員として教員生活に入り、大正5年3月の間教育者として成果を上げています。
大正5年4月から郡史編さん主任となって専門に歴史研究に入り、大正14年3月退職するまで郡史作成の主任として10年の間郡史編さんに尽くされました。真夫の自宅の庭に、自費をもって建てられた碑「あさゆふにわれとわかみをはげまししそのひとことはI must do」という文が真夫の小県郡史を編さんした時の心意気をよく物語っています。小県郡史は大正11年に本編1,000ページを超える大部なものが発行され、翌12年には余編が発行されましたが、当時のものとしては全国でも出色な冊子でした。特色を挙げると、民俗資料を多く取り入れていること、考証の仕方が全国的立場にたち独断を避けていること、統計を使って実証的にしていること等、現在のもの比べても遜色のない立派なもので、小県郡史は当時の学問的立場を洞察したものであったことがよくわかります。
小県郡史の仕事が終わるとすぐに小県郡民謡集を出版し、続いて小県年中行事集、小県民俗集の出版を計画していたようです。それは小山家に残された遺稿によって察することができます。
真夫が作られた野帳その他を見てわかることですが、仕事が非常に精細で綿密であったことです。
真夫が、小県郡史のために小県の各町村をくまなく調査し、記録した26冊の野帳は、上田市の有形文化財として指定されています。