下村亀三郎

信州丸子の製糸業起業家

下村亀三郎
下村亀三郎
(しもむら かめさぶろう)
1867ー1913

 下村亀三郎は、慶応3年、上丸子村(現上田市上丸子)に生まれました。亀三郎は丸子小学校の柴崎虎五郎校長の支援を得て、明治18年に正規教員を目指して慶応義塾に入学しました。
 塾長の福沢諭吉を心酔敬慕していた亀三郎は、勉学半ばで病に伏しながらも、福沢塾長の日曜演説会は聴講していました。しかし、病気がひどくなり帰郷することになりました。亀三郎に福沢は『君は教員志望の初志を捨て信州の地に適した産業を興し先駆者となれ。信州は全国的に見て養蚕業の盛んな所、また、製糸業の先進地である。よく研究して製糸業などに注目せよ。日本の国はこれから海外貿易を盛んにしなければならない時運に向かっているのだ』と熱意をこめて諭したといいます。
 帰郷後、事業家に転進する決意を持ち、零細製糸家を集め、丸子に組合器械製糸結社依田社を起こしました。依田社は幾多の苦境を乗り越えながらも順調に発展。生糸の品質に徹底的にこだわり、生糸検査部を充実させたことから、明治の末頃には横浜市場で「依田社格」と呼ばれたほど優良糸生産者としての評価を確立し、売込商・外国商館を通さずにアメリカへ直輸出が可能となりました。
 また、亀三郎は丸子町の初代町長も務め、大屋-丸子間の鉄道敷設の発起人として尽力するなど、地域の発展に努めました。
 世界的な視野や郷土発展に比類なき熱意を持ち、天与の統率力、指導力を積極的に発揮した亀三郎は、大正2年に47歳の若さで急逝しました。
 現在、慶応義塾創立150周年を記念した、福沢諭吉展が開催されており、この中に下村亀三郎に関わる展示コーナーが設けられています。(~3月8日/国立博物館、5/9~6/14/福岡市美術館、8/4~9/6」/大阪市立美術館)
 上田市丸子地域は、現在でも市内有数の工業集積地ですが、その礎は一重に下村亀三郎が築いたものといえましょう。

このページの先頭へ