伊藤松宇

俳人・古俳書収集家

伊藤松宇
伊藤松宇
(いとう しょうう)
1859-1943

 伊藤は、安政6年(1859)に小県郡上丸子町(現上田市上丸子)に俳人伊藤洗児の長男として生まれました。本名は半次郎といいますが、俳号として松宇・雪操居・歳寒子なども用いています。早くから父に俳句・連句を学び、加部琴堂かべきんどうにも師事しました。明治15年に上京し、家業の藍取引を通じて知り合った銀行家渋沢栄一に認められて、横浜第一銀行、王子製紙、渋沢倉庫などに勤め、渋沢財閥の幹部になり実業界でも活躍しました。
 明治23年(1890)、俳人森猿男、片山桃雨らと俳人グループ「椎の友社」を結成し、従来の俳諧連座(句会)を廃止し、互選という方式を取り入れるとなど、俳句会の先頭に立ちます。「近代俳句の祖」といわれる正岡子規まさおかしき内藤鳴雪ないとうめいせつらも「椎の友社」に加わり、俳誌『俳諧』を明治26年(1893)に、『ひばり』を明治44年(1911)に創刊しました。従来の懸賞形式をやめ、作品本位の編集を確立しました。松宇は「明治初期俳壇の先覚五人衆」(尾崎紅葉おざきこうよう巌谷小波いわやさざなみ大野酒竹おおのしゅちく角田竹怜つのだちくれい)の1人に数えられています。
 実業界を退いてからは、主として研究家、古俳書収集家として活躍し、晩年の20年間は小石川関口町の芭蕉庵に居住しました。正岡子規の日本派とは異なり、連句を含めて近代俳句文芸の改革を目指した点で独自さがありました。句集には『松宇家集』、主な編著に『俳諧中興五傑集』『蕉影余韻』『俳諧雑事』などがあります。
 郷里の上田城跡には江戸俳区研究の成果の一つとして、大正8年、加舎白雄の句碑を建てて、先人の名を広めることに努めました。また、昭和10年(1935)上田市上丸子の安良居あらい神社境内に松宇の句碑「長江を呑む高楼の青嵐」が建立されました。
 松宇没後、蔵書約3000冊は「松宇文庫」とし、講談社初代社長により小石川の関口芭蕉庵にそのまま納められ、ついで四代目社長逝去後、講談社に寄贈されましたが老化が激しいため、同社倉庫に永久保存されました。現在は、品川の国文学研究所にマイクロフィルム化され、保管されています。

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