金子行徳

信濃絹糸紡績(シナノケンシ)を創立した事業家

金子行徳
金子行徳
(かねこ ゆきのり)
1878ー1965

 金子は、明治11年、小県郡殿城村(現上田市)赤坂の金子家の三男として生まれ、上田中学校(現上田高等学校)を卒業し、将来の必要性、重要性を考え、上京して東京正則英語学校に学びました。明治34年に卒業し、野沢中学校(現野沢北高等学校)の英語教師として実社会のスタートを切りました。明治39年、日露戦争直後に陸軍通訳を任命され、満州(中国東北部)に渡り通訳として活躍しました。
 明治42年、通訳官を依願退職し、新聞社に入社して海外特派員として、欧米各地に派遣され活躍しました。若い情熱を持って活躍した青春時代の諸体験がこれからの多彩な生涯の基盤を培ったのです。
 事業をしてみたいと思っていた金子は、明治44年新聞社を退社し、友人と上伊那郡小野村(現辰野町)で製糸業の協同経営を始め、この仕事に7年間専念しましたが、もっと安定した堅実な事業をしてみたいと考えました。大正7年、製糸からでるくずを原料とする絹糸紡績を営む決心をしました。いざ会社を起こそうすることは大変でした。上田蚕糸専門学校の石倉新十郎先生に教えを請い、資金は小島大治郎に全面的に援助を頼み、無経験の身にもひるまず、丸子町(現上田市)に信濃絹糸紡績株式会社を創立し、専務取締役として船出しました。
 大正8年から生糸が未曾有の高値となり、多くの企業が売り惜しみをしているとき、金子は製品全部を売約してしまいます。その直後糸値は大暴落を続け多くの企業が倒産しましたが、信濃絹糸はわずかな損害で済みました。昭和初期の金融恐慌では、某銀行が危ないことを見通して倒産寸前に全預金を引き出して損害を防ぎました。また、昭和19年、軍需工場への転換を至上命令として言い渡されましたが、このとき「乱にいて治を忘れず」と思い、各機械ともびょう1本に至るまで丁寧に保存しました。これにより、戦後いち早く事業を再開することができました。
 このように眼前の利益にとらわれることなく、常に先を読み事業の永久性を考えた経営で困難を乗り越えたのです。自分の事業に精進しながらも、郷土の建設や地域の産業発展にも強い関心を持って取り組みました。また、厳正中立の理想家で、請われて多くの公職に就任しました。
 昭和44年、88歳で逝去するまで多くの公職に就き、社会に貢献した生涯でした。

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